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『小惑星美術館』寮美千子/パロル舎(1990)
'98.01.19読・記
いままでのできごとが、ぼくの頭を駆け抜けた。曲がった地面、裏返しの銀河盤、百二十区、ジンバキュウ百七年、消えてしまったラン。ランはだいじょうぶだろうか。けがはどうだろう。早く探さなくちゃ。ママ・・・。ああ、ママはどこにいるんだろう。いつ、会えるんだろう。ほんとうに、ぼくのママなんだろうか。ぼくは、夢の中でたくさんのことを考えていた。ばらばらの破片がパズルのように頭の中を駆けめぐっていた。ぼくは、そのパズルをなんとか解こうとしたけれど、なかなか解けなかった。絡み合ったひものように、解こうとすればするほど、ひどくもつれてしまうのだ。けれど偶然、ある一本をひっぱったら、ひもはするするといきなり解けてしまった。ぼくの目の前には、一筋の糸に結ばれたひどく奇妙な物語がころがっていた。
ぼくは息をのんだ。それは、こんな物語だ。
ここは、まるっきり別の世界なんだ。そっくりおんなじように見えても、何もかも違う。この世界には、ランがいない。そのかわり、死んだはずのママが、生きている。ここには、もうひとりのぼくがいる。ぼくとそっくりのユーリ・ザキが。みんなは、ぼくをそいつだと思いこんでいるんだ。こっちの世界のユーリは、どこへ行ってしまったんだろう。もしかしたら、ぼくと入れかわってしまったんだろうか。
遠足の朝、ユーリは待ち合わせ場所の銀河盤公園で、オートバイに跳ねられてしまう。気が付くと、そこは地面がそっくり返った別の世界。見覚えのある風景、友達。でも、そこは違う世界なのだ。なぜなら、・・・ここには死んだはずのママがいるという。
皆が「れんがの月」と呼ぶこの世界から、12歳の子供だけが行くことができる「小惑星美術館」へ遠足に行くこと・・・、それがこの世界の「掟」らしい。ママに会うこともできずに、無理矢理「小惑星美術館」に向かう船にのせられたユーリに、船長は言った。
「いつの日か、しるしを持った十二歳の子どもがやってきて、小惑星美術館の秘密を解くだろう。その時、『れんがの月』の大いなる円環は開き、新しい時が生まれる。・・・わたしは、待っていたんだ。きみのような子どもが現われるのを、何百年も」
『ノスタルギガンテス』が大人のための童話なら、この『小惑星美術館』は大人と子どものための童話だ。
疑問を持たない子どもたち、疑問を持つことを許さない世界。
時間の輪は、いつも同じようにくるくると回り続ける。ヒトが多くのことを知ってしまえば、輪途切れてしまう。途切れた輪は螺旋になって遠心力が先と先とを引き離し、宇宙の彼方まで伸び上がる。そして、二度と元の位置に戻ることはない。
だから、知ってはいけない。
ありふれたストーリーに見えて、このお話がありふれていないのは、ユーリの「帰りたい」と思うその心の強さと、それ以上に「知りたい」と思う好奇心にあるのかもしれない。好奇心はまさに「れんがの月」には存在しないものであり、それを持ち続ける限りユーリは「れんがの月」の世界で「異邦人」でいることができる。その気持ちが、ユーリに世界の謎を解く鍵を与えていく。
繰り返される「小惑星美術館」への遠足の本当の意味、何百年も生きる船長の悲しみ、そして、歴史。謎を解けば解くほど、輪に巻き込まれてしまった人々の、戻らぬ時の悲しみを、ユーリは見ることになる。
でも、ユーリや、これからの子どもたちには溢れるほどの時がある。本当の謎を解く鍵を心に持っていれば、時の流れは悲しみにはならない。これからは。
もう一人のユーリは、どんな謎を解いたのだろう。
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