Sponsored Link

ざぼんの皮 2004年 09月


Generated by nDiary version 0.9.4

Sep.6,2004 (Mon)

佐藤哲也『熱帯』文芸春秋

熱帯「熱帯」 佐藤 哲也
サイズ: 19 x 13cm 発行: 2004/08/25 価格:
ISBN4-16-323240-0

bk1 / amazon / Yahoo! / 旭屋 / Jbook / 紀伊國屋 / 楽天 / skysoft

「もし天上に神があるなら、あの連中にわたしの涙の償いを払わせてください」
 会議の様子からここに至るまでの一部始終を見ていた神々は栗栖羊一の悲嘆を哀れに思い、願いを聞き届けることにして中部太平洋を根城とする二柱の神を東京に送った。熱気と湿気である。この二柱の神には疲労と不快がつきしたがい、たちまちのうちに海を渡って東京に姿を現すと、まず熱気が道入り乱れるこの街を分厚い高気圧で覆い尽くし、そこへ湿気が南から湿った温かい風を導いた。気温も湿度も不快指数もぐんぐんあがり、大手町にある気象庁の温度計は正午に四十度を記録した。路上で倒れる者は跡を絶たず、病院の救急受付は日射病や熱射病の患者で満ち溢れた。ビルの内部にいても冷房はほとんど役に立たず、無理に温度を下げようとすれば換気装置が過剰の熱を貯えて作動不良に陥った。ハイテク設備を備えた赤井屋システム本社ビルもまた例外ではなく、多くの者が熱気に喘いで上着を脱ぎ捨て、冷たいものを求めて廊下の自動販売機に列を作り、長々と延びた列の末尾で順番を待たずに倒れた者は一人や二人では済まなかった。
 相変わらずの佐藤節を堪能。無茶苦茶面白かった。

 佐藤哲也の言葉には「コノウソホント」が内蔵されているんだと思う。どんなありえない事柄も、佐藤哲也が小説で書いたとたん、その言葉そのものが命と意思を持ち、好き勝手に暴れまくる。言霊、というよりも、言葉のアニミズムとでも言うか、佐藤哲也が「神」と言えばそこに神が出現し、水棲人と言えば水棲人が出現する。その具体的な形状についてはほとんど語られることがないのに、読む者(私)の脳裏にはきっちり「熱気」と「湿気」が東京上空を祟ってまわる映像が立ち上がる。普通で言うディテールなんかとは、あんまり関係のない次元で、異様な「存在感」があるんだけど、これがどこから来るのかがさっぱりわからない。文章そのもの、なんだろうけど……。

 基本的に、あらゆる事柄がメタであり、パロディになっている。物語は、「不明省」不明事象管理データシステム開発の巨大プロジェクトと、不明省職員で不明事象「事象の地平」を管理する多々見不運と、その叔父であり愛国的気候論者でテロリストの多々利無運、そして暗躍する各国のスパイ、水棲人、部長もどきなどが入り乱れて進行する。が、これらのストーリーは、小説の本質とはあまり関係がない……ということはないんだけど、えーっと、小説そのものが、ストーリーよりも常に高次に存在していて、「この小説にとって、ストーリーの展開の価値が非常に矮小である」こと自体が、この小説の本質のような気がする。

 過剰な意味と存在感、意識と意思と自我を与えられながらも、小説という大枠の世界への干渉は許されず、物語の中では運命や会社や仕様書に弄ばれ、抵抗も空しく虫のように扱われ、神は移り気に願い事を叶えたり叶えなかったり頓珍漢だったりする。この小説そのものが人生や、大人であることや、仕事をすることのカリカチュアだ、なんてことを言ってしまうとつまらない説明になってしまうけれども。

 例えば、小説中に挿入される「プラトン・ファイト」。古代の哲学者たちがプロレスよろしく入り乱れて激闘を繰り広げるテレビ番組。それぞれが人生を賭けて考え、書き記した世界の「真理」を武器に、哲学者同士が戦う様をギャグにすることで、人間の自我が考えてしまう様々なことの意義と意味のなさを、からからと笑い飛ばしているように見える。そして、「語るのは無意味に等しい」と言いながら、8ページ(!)のに渡って羅列される会社の説明と同様、意味がないこと自体が、この小説の意味なのだ。意味がないことが無意味ではないことが。

 とか、あーーーーー、つまらない解説なんかしたいわけじゃなくて。とにかく、読んでいて脳みそが喜ぶ小説。目に飛び込む言葉、頭に響く文章が、命を持って飛び跳ねる。

 これこそ、百聞は一見に如かず。是非、モノを読んでください。特にSEの方々の感想が聞きたい。

去年の今ごろ……

Sep.8,2004 (Wed)

映画『らくだの涙』

公式サイト

 モンゴルのゴビ砂漠の片隅、昔ながらの暮らしを続ける一家の元に、一頭の白らくだが生まれる。しかし、初産で難産だったせいなのか、母らくだは乳をやろうとしないばかりか、寄せつけようともしない。家族は、なんとか母らくだに子育てをさせようとするが……。
 ドキュメンタリー映画、とのことだけど、どこからどこまでが演出で、どこからが事実なのかはさっぱりわからない。家族はやや演技しているらしいけど、らくだのこれは……事実なんだろうなあ。普通のらくだ出産の場面だけならともかく、子に受け入れられないらくだを映画として捉えられたということ、さらにそれが見た目にも鮮やかな「白い」らくだだったということ、しかも最後にあんなに劇的な結末を迎えるということ。これらが全くの偶然だというのが、すごいなー。

 まず最初、らくだの大きさに圧倒される。ふさふさの毛に覆われた、茶色の大きなふたこぶらくだ。このらくだが、予想以上に可愛いのだ。大きくぬれた瞳に、ぼーっと半開きの口(時々くちゃくちゃと動く)。人に乗ってくださいと言わんばかりのこぶの造型。冒頭、ひいおじいさんの口から「らくだがいつも遠いところを見つめているのはなぜなのか」の伝説が語られるんだけど、それがまたいい効果を上げている。とにかく、らくだに萌える映画だった。普段あまり注意して見る機会のない動物だけど、じっくり見せられると、なんとも言えない愛嬌と迫力があるもんだ。始終にやつきながら鑑賞してしまったよ。

 次に、モンゴルのゲルでの生活。ゲルの中央のかまど(どういう仕組みなんだろう?)では、いつもひいばあちゃんが料理をしていて、その傍らで一番小さな妹が泣いている。兄と弟は、何か動物の歯を使ったお弾きに夢中。他の家族は外で家畜の世話に明け暮れている。戻ってくれば、一家でミルクのお茶を飲む。そういう生活。素朴で豊かな、と言ってしまえば月並みな感想になってしまうけど、動物や自然や暮らしに対する、家族の自然な愛情が画面に溢れていて、やっぱりぐっとくるよ。

 ただ、別にモンゴルでもそれが一般的な暮らしであるというわけではなく、兄弟が町におつかいに行けば、洋服の子供たちが自転車を乗り回している。兄はアイスクリームや、テレビの映像に魅了される弟を引き離すのに一苦労だ。ラジオの単一電池を買いに行くのに、らくだで2日かかる暮らしでは、テレビなぞは買えるはずもないのだけれど。

 この映画にBGMは一切ない(と思う)。ナレーションも解説も一切なし。けれども、話し声や歌、それから羊やらくだの鳴き声と足跡、物凄い砂嵐の轟音があれば充分だ。そして、馬頭琴と、お母さんの歌。すごーーーくいい。

 私にとっては、ひたすら萌えで満載された映画だった。らくだに萌え、幼い兄弟に萌え、幼女(泣いてばかり)に萌え、きれいな(美人じゃないんだけど、ホントに若くて(十代にしては子供が大きいな)きれい)嫁さんに萌え、ジジババ萌え、景色萌え、モンゴル萌え萌え、羊萌え。それから、白らくだに仲の良さを見せつけるかのような、ベッタベタ親子らくだが凄まじく可愛かったよ。

 映画としては、かなりアバウト。もともとがドキュメンタリーだけあって、終わり良ければ全て良しの朗らかさも、ちょうど良く気が抜けている感じで、そこにも萌えた。きちんとした映画とか、映画ならではの作り込みを期待すると、肩透かしを食らうかもしれないけど、逆に『ディープ・ブルー』のような過剰な意味付けがないのは良い。自然と共にある営みがそこにあって、何がどうしてそうなるのかはわからないけれども、結果を受け入れ、楽しみ祝う姿を見ているだけで、最高だった。

 ただちょっと、字幕が足りないのだけがストレスだった。おばあさんが祈っている場面や、お経なんて、訳しても意味がないのかもしれないけれど、何を言っているのかは知りたいよ。マンマンチャンアンでいいからさ。子守唄や、最後の弟の歌にも字幕がつかないのは、すごく不満。字幕監修の旭鷲山昇氏は反省しる!

 ゆったりおおらかに見るのにお勧め。会場で売っているトートバッグ、ちょっと欲しかったな。以下、ほんのちょっとだけネタバレ。

 ラストシーンの大きなアレは、演出だよね?

去年の今ごろ……
このページの先頭へ