*参照
=>ざぼんの皮31日
有里さんの日記=>◆[zakki] ああ、ようやく納得 ―― なのか?
*文中、引用に伴うリンクが多く、非常に読みづらくなってしまったため、
ざぼんの皮=>(ざ)
ざぼんの葉(掲示板)=>(葉)
Alisato's 本買い日誌=>(あ)
とし、引用部分はそれぞれ発言者ごとに色を変えております。
繰り返しますが、別に有里さんに図書館を利用していただきたいとか、図書館を肯定的に受け入れてもらいたいとか思っているわけでは全くないし、だいたいそう思わなきゃならない理由も、そんなことを思う権利も私にはない(28(ざ))し、私は図書館員でもないし、図書館に忠誠を誓ったわけでもないのに、/私は図書館を擁護しなくちゃいけないのだろうか?(31日(あ))ってことも全くない。だったらWebになんか書かずに、一人で「脱力」していれば良かった話なのに、書いたところで何がどうなる問題でもないとわかりながら、こらえず、言い訳を吐きつつ(吐けばいいって物じゃない)書いてしまったわけで。非難されたように受け取られてしまったのも無理はないと思いますし、こちらにその意図が全くなかったといえば嘘になりますが、そもそも、私が文句を言う筋合いでは全くない。申し訳ないです。
で、なぜ私が「脱力」し、「脱力」したと書いたのか。何度も引用していますが、有里さんがあげられた、有里さんのものではない、代弁としての図書館を利用しない人の理由(本が新品でない/貸出期間がある/返却しなくてはいけない/本に書き込みできない/行くのが面倒(少なくとも貸出と返却の2回出向かなくてはいけない))(27(あ))(以下、「理由」とする)というのが、的外れで、不当なものに見えたからです。というか、これは図書館の問題点を洗い出している(31注(あ))わけではないでしょう。
そもそも話の発端は、一生懸命『波が風を消す』を探すが、見つからないため読めずにいる一歩さんが、借りられればいいのに26日一歩さん(意訳してます)と言っていることに対して、「借りたいなら図書館に行けばいいじゃん」(26日(ざ))ということだったわけです。要するに、その欲求は図書館に行きさえすれば充足されるのに、どうして行かないわけ?ということです。掲示板で有里さんが指摘された通り、当初から「マドカさんのポイントは「本当に読みたいのなら」にあった」(29葉(有里さんの発言))。<これがわかりにくくなって申し訳ないのですが。
で、「理由」に戻りますが、これって一つも「図書館の問題点」じゃないんですよ。図書館が図書館である以上、全て必然、当たり前、当然、こうではない図書館は存在し得ないのですよ。これを「問題点」として、どうにかして処理してしまったとしたら、そこにあるのは、今ある図書館ではない別の何かになってしまう(その方がいいということもあるかもしれないけど)。
この「理由」が、推測したように(30(葉))有里さんの言葉ではなく「一般論」だとすれば、これは図書館の存在形態そのものを否定するものであり、最初から図書館が存在することを前提としていた私には、到底受け入れられない「一般論」だった。でも、そもそも対象とする人々の集合が私と有里さんでは全く異なっていたということですよね?(確認) 有里さんが「代弁」する「一般論」の「一般」とは誰なのか、私は困惑して、「脱力」したわけですな。全否定するかー?と。結局「一般論」というわけではなく、特定の知人のお言葉だった、ということなのでしょうが、それにしても理由としてあげるには散々だと思うのですよ。でも、それを有里さんが「理由」として挙げられるのは自由ですし、たとえそれに私が不快感を感じたとしても文句を言う筋合いは全く有りません(つーか、ここで不快感を覚えること自体が筋違いなのだ)。まして、こう行き違ってしまった非は、「読みたい」の活用形の<b>を外してしまった(30(葉))私の方にあります。喚いて不快感を与えた挙句、お時間まで割かせてしまい、申し訳有りませんでした。
で、「代弁」ではなく、有里さんご自身の意見としての図書館を利用することの面倒臭さ(30(あ))は無理もないことだと思いますし、森山さん(7/3)の1)使えない、2)うるさい、3)なんだかジメッとしているというのも、確かに古い所はそうだよなあと思う。また、大学の時は新築されたばかりの広島県立図書館から徒歩3分のところに住んでいたのだ。いちおう県立だけあって、綺麗だったし蔵書もそれなりだったので。蔵書に関しては僕の要求度が低かったってこともあるかもしれないけど、よく足を運んでいたとありますが、やっぱり図書館を使うか使わないかの線引きは、立地、利便性、清潔さなんかに左右されるんですよね。自分の過去の経験(31(ざ))を見てもそうだし。ただ、図書館は郵便局と違って何キロ以内に必ずアクセスできる施設を建てる義務(ってなかったっけ??)があるわけでなし、事前に図書館の傍を狙わない限り、図書館が利用し易いかし難いかは、運不運の問題になってしまう。まさか、俺のために近所に作れとは言えないからね。
また、時代的なものも当然あるでしょう。図書館は暗くて、図書館員はいばってて不親切で、小説は難しいものしか置いていなくて、すごく所蔵数も少ないというようなイメージなんじゃないですかね。(2001/07/30追記 有里が持っているイメージではありません。 私は現在の図書館が明るくてソファが置いてあって、小説や文庫本やマンガもおいてあることを知っています。)まあ、そーゆーのって、20年前の図書館の姿なんですけどさ(1999/8/26(あ))という感じのイメージは確かにある。でも、私が高校時代、ちょびっとだけしか恩恵にあずかれなかった図書館の建て替え前と建て替え後を比べてみれば、時代によってイメージだって変化するんですよね。「図書館は成長する有機体である」(ランガナタンの図書館学の5法則……って、日図協とかにちゃんとした解説はないのか)というのとはちょっとずれるかもしれないけれども(だいたい、あらゆる施設、事業が全てそうなだしな)、確実に図書館も成長してはいる……はず。多分(^^;;;。
で、成長させるのは利用者なんですな。リクエストしたり、借りたりすることで、蔵書はコントロールされていくのだし、第一、利用者数が増えないことにはどんどん予算も削減されていくしかないだろうし。まあ、基本努力が、土台でこけていることもあるんだけれども(東京23区に関しては『図書館運動は何を残したか―図書館員の専門性』【bk1/amazon.co.jp】を参照のこと。がっくりできます)。広報、宣伝にもうちょっと力を入れてもいいと思うしなあ。
読みたいと思う気持ちと、図書館の利用に付随する面倒のハードルの高さは、人それぞれで、図書館を利用するためには面倒を打ち勝てるくらい「読みたい」気持ちがないと駄目なんだろうけれども。継続的に利用しない限りは。利用できない人は、仕方がないかもしれないけれども、利用できる限りは、入手を諦める前に、一度行ってみてもらいたいですよ、本当に。
今月、うちのサイトから買っていただいた紹介本は寮美千子『ノスタルギガンテス』【bk1/amazon.co.jp】と、『だれかを好きになった日に読む本(きょうはこの本読みたいな 1)』【bk1/amazon.co.jp】でございました。売上全体は、先月よりやや低いものの、この2冊を買っていただけたのは嬉しい(^^)。有難うございます。面白くなかったら申し訳ないんだけど、満足していただければ幸い。
しかし、うちみたいなまともなプチbk1作っていないところでも買ってくれる人がいるのは結構毎度おどろきだわ。
中国人の世界にひたり、生活をまるごと好奇の目で見つめる。写真の隅々を解読して見えてくる隣の未知の人々。
最先端領域に宿る天才たちの壮絶なドラマ。歴史の背後に秘められた、暗号作成者と解読者の攻防―加速する情報戦争の勝者はいったい誰か?『フェルマーの最終定理』に続く世界的ベストセラー、待望の完全翻訳版。
数式を見ると虫唾が走る。公式と聞くと悪夢が甦る。そんなあなた、読みなさい。お釣りの話―方程式と関数;二階から降りる―微分;蛇口から水が垂れる―積分;腕回し体操―三角関数;一枚が二枚、二枚が四枚―常用対数
雑誌「夜想」「WAVE」「銀星倶楽部」「ur」などを中心に80〜90年代の文学・アートシーンをトップスピードで駈けぬけた伝説のインディペンデント出版社、ペヨトル工房。ペヨトル工房はなぜ「解散」しなければならなかったのか?主宰・今野裕一と元スタッフたちが創業から解散にいたる20年をふりかえる。また、解散後の動きもリアルタイムで収録。ペヨトル・ファンのみならず、出版の未来を考える人にも必携の書。
本書は、日常製品以外にも真空ではどのようなことができるのだろう。できれば自分も真空を勉強して使ってみたい、と考えている読者のために、「空気が薄く、真空になったとき、どのような現象がおこるのか」、「真空を用いれば、現在困っている技術的問題が解決できるのではないか」、などの無限に広がる真空の可能性について解説したものである。
……やたらと理系が多いのは、もろ、理系コンプレックスの表れだな……。でも、目に引っかかるのは、こういう本ばかりなんだって。実際、中をちらりと覗くと面白そうなんだけれども、読まなきゃ無意味だってばよ。
但し、夕方。
最近、びっくりするほどお通じがいい。麦飯のせいなのだろうか。でも、もう何ヶ月だっけ、麦。
【bk1】
ずっと読んでみたかったのだが、機会がなく、たまたま『キン・ザ・ザ』上映待ちで入った漫画喫茶で4巻まで1時間タイムトライアル。
予想通りのストーリーで、予想通りの危うさで、……予想通りはまってしまった……。5巻まで一気買いさせてもらいました、bk1。で、今日の夕方5巻まであわせて再読。
#全巻購入アイテムを注文しちゃうと、各巻の在庫があっても、出版社に注文が行ってしまうそうな。結局各巻で注文しなおして購入(^^;。確かに取り寄せアイテム扱いだもんなあ。
弱いんだよ、この回想形式のモノローグ。全て終わっている場所から、とつとつと語られる「あの頃」の物語。あの時ああしていれば、こうしていればという後悔と、梅雨の晴れ間のような一瞬の幸せな時間と。もうみんな起こってしまったこと、全て終わってしまったこと。どんなに願っても、何も戻ってこないし、誰も帰ってこない。しかも、当時は知らなかった残酷なことも、……これを誰からシュージは、どのように聞き、どう感じたのかとか、ちょっと穴を覗きこむだけで、痛い。
彼女の変形も、そんなあるわけないないと最初は思っていたのに、より大胆に、より馬鹿馬鹿しく、より無理矢理な描写になるにつれて、重みを増していくのはなぜ。明らかなオーバーテクノロジー(ていうか、うーん)。だいたいなんで女子高生を使うんだとか(それこそ、地面から足が生えて足を引っ掛けるような)、そもそも理屈なんて全然関係なくて、「戦争」だって、最初思っていたような国家間のものではなく、実はもっととんでもないことが行われているのだということに、気がついていく。
シュージとちせの恋愛模様も、非常に痛くてよろしい。ちせは予想通り女神系だけれども、痛みも悲しみも頑張りも嫉妬も、丁寧に書かれているからいいのかな。ただ、ふゆみ先輩がらみはあまりいらない気が。
……早く終わらせてやってくれよ(T-T)。痛すぎ。最初からラストは決まっているみたいだし、下手に商業主義に引っ張られて延々と伸びないで欲しい。痛すぎるし、だいたい買おうと思っているんだから、かさばらないようにしてほしいのだよ。我慢して8巻くらいまで……、無理?
『ナウシカ』の頃は宮崎系の絵があまり好きではなかった。『ラピュタ』はテレビ放映をビデオにとって、文字通り擦り切れるほど見た。初めて劇場で見たのは『となりのトトロ』と『火垂るの墓』。母は絶賛していたが、当時は今一つピンと来なかった(今は、わかる)。『魔女の宅急便』は商店街の小さな映画館で見た。それほど好きではなかった。『紅の豚』はテレビで見た。あまり印象には残っていない。『耳をすませば』は見ていない。『平成狸合戦ぽんぽこ』は反吐が出るほど嫌いだ(「某小説とどちらが駄目?」と聞かれて悩むくらい)。どうしても見ることが出来ず、頭とお尻のみ(テレビ放映のたびに挑戦しているので、トータルすれば全編見ていると思う)。『もののけ姫』も冒頭とオチを別の日に見ている。『山田くん』は見ていない。気に入っているのは『ラピュタ』とマンガ版『ナウシカ』。
割と場末っぽい映画館で。結構立ち見(座布団)が出ていた。
うーん、どうなんだろう、これ。全く期待していなかったので、悪い意味で期待通りと言える。先に見た友達にも「何も考えずに見ること」と言われていて、なるほど、その通り、何も考えずに見るしかないんだろうなあ。そういう意図の元に作られたんだろうなあ。だから突っ込むのは野暮なんだろうなあ。そう思わせる映画だった。元気がなくて、気が抜けていて、ざるに水がすかっと落ちていくのを見るようなあっけなさ。何も残らない。
以下、上映中なので背景同色。コンピュータRPGみたい。主人公はストーリーのために動くだけで、内面は窺い知れない。成長もしない。序盤で覚悟を決めたら、そのまま頂点まで行っちゃったらしい。恐ろしさに震えて逃げ回っていた(この時点での心理描写はすごく丁寧)のが嘘のように、突然無茶苦茶大胆な行動ばかりをするようになる。動機付けも、理屈付けも、必然性もなく、異様に不自然な行動を繰り返す。だいたいですね、ロープの掛け方、たすきの掛け方(あっざやかー)を知っているのは、どーいうことなんだ???? どうして苦団子?が効くと思ったの? りんに「あんたのことどん臭いと言ったけど」と言われる場面で、「どん臭いままで、何もしていないよ、こいつ!」と突っ込みたくなった。顔なしと坊と鳥婆連れて銭婆の所に行くところは、本当になんかもう「新しい仲間が増えた! ちゃーらちゃっちゃー」という感じで、痛かった……。とにかくもう、どうしてそういうことするかなあの繰り返し。そうして、ただ、世界を通りすぎていくだけなんだよなあ……。
エピソードも、ミッションを与えられ、言われた通りにその場所に辿りついて、成功するの繰り返し。脇キャラも、どうしてそこにいるのか、どういう人なのか、全く説明がない。全然何もからっきし書かれていないのだ。裏がありそうと覗いてみても、書割のように空っぽだ。厚みがない。伏線もない。「どうして?」と思うことすら否定するかのような、最初から空っぽの存在、何もかも。
街や絵や、キャラも雰囲気だけはいいんだけれども、無意味に異国風な感じが、癇に障る。絵面だけで何も考えていない風なのが、解釈を阻む。エンディングの、曲調も声も好きなのに、歌詞に唐突に混ざりこんでいる「ゼロ」という片仮名が、どうしても嫌で嫌でたまらない。これが全てを象徴しているような気すらする。間違ったものがいるという違和感。
自然破壊に絡んだ話題が出てくるにも拘わらず、テーマ性にまで持ちこむ気がないみたい。説教臭いのが嫌いな私は歓迎なんだけれども、こんな中途半端な形にするなら、いっそのこともっと思いっきりエンターテインメントにしてしまえば良かったのに。気色悪い。
んで、夢オチ。いや、現実的に時間は経っているみたいだけれども、何も残らないし、何も残さないし、何も変わらない。経験値は増えただろうけれども。
この空しさは何なんだ。からっぽになって見ればいいのだろう、これはそういう映画だ。だから、突っ込みなんか野暮で無意味なのだと思わせる空虚な物語。
一通り書き終えてから、色々感想を検索して、SFオンラインの映画評を見る。好意的に解釈すればこうなるのか、と感心する。でも、「そもそも、登場する事物がすべからく現実世界の何かを象徴していて、その照応関係があからさまな作品など、ファンタジーとしては下の下だろう。」というのは分かるし、同意するけれども、現実との対照性以前に、その世界内での存在感、厚みを、広がり、繋がりを、この映画のキャラクター達は、物語は、持ち得ているのか? 可愛いだけ、不気味なだけ、怖いだけ、親切なだけ(どうして?)、滑稽なだけ、それ以上の何かを。ステータスや役割ではなく、見てくれだけではない、そのものの個性を。
絵や動きはいい。所々唐突な動きをするカットがあったように思えるけれども、さすがだなあと思わせる。釜爺の腕が一番好きだ。でも、それだけ。
そうそう、【bk1】注目作『千と千尋の神隠し』を楽しむための副読本にもあるけれども、確かにオトフリート・プロイスラー『クラバート』【bk1/amazon.co.jp】だった。と言っても、もう無茶苦茶気味が悪くて暗い話を、中学の頃散々苦労して読んだ記憶しかないんだけれども。読みなおそうかなあ。実家にはあると思うし。
=>つづき
くわしいお店情報はタムタムの中華料理日記参照。
餃子が絶品の中華料理屋・美〓[=王其]に(字が間違えていたので修正しました)、リベンジ。振られた前回の経験を活かして、予約を取ってから行ったのだが、案の定完全に貸し切り状態……。ああ、これでは完全に逆効果だよ!!! 人件費の分だけ、店側完全に損じゃん!! 人数も減ってしまったし、心が痛い〜(T-T)。でもおいしい!!
一応3500円のコースで、前菜(チャーシュウ)、スープ(鳥とフカヒレの卵スープ)の後、エビチリ、牛肉の炒め物、五目焼き蕎麦、杏仁豆腐だっけ。旨いんですよ、本当に。餃子は当然おかわり。口に含んで噛んだ瞬間じゅわーっと広がる汁気の感触は、某有名店にも比肩する、涙が出そうなおいしさ! でも、この汁気の正体は謎。脂でもなく、スープでもない感じ。あっさりしていて美味しいんだけど、中身を分析してもよくわからない。でも、いいんだ、そんなことは。ここで、この餃子が食べられる限りは。
配膳のおじさんも親切で(マンツーマンだし(T-T))、お茶も沢山持ってきてくれた。量もたっぷりいただいて、デザートの杏仁豆腐の頃には相当お腹がはってしまった。これって、もしかして、量は人数分のままなんじゃないだろうか、申し訳ないようと思いつつ、会計したら、予約の価格しか取られなかった。レジ横に貼ってある犬猫の写真を眺めていて、ふと見たメニューには、同じ内容のコースが3900円と書かれていたような。まけるなよ、こんなところで!! 我々が予約しなかったら、今日はお休みだったお店(定休日は日曜日だけど……)。実際の儲けも我々の分17000円強のみ。もっと請求してよ、払うし、それだけ美味しかったし、沢山いただいたんだから。駄目だよ、駄目だよ、潰れないで、お願いだから。
また行こう。今度は平日か、ランチに。
きまぐれムービーシアターの紹介。ニュージーランド映画でした。
92年ごろだったか、梅田の今は亡きシネマヴェリテのちらしで見て興味を持ち、その後たまたまテレビの深夜に放送があったので、録画。パペットアニメだからと弟と見始めて、あまりの内容に数分で中断してしまったもの。
結構沢山レビューが挙がっているが、誉められているみたい。機会があればどうぞ。私は胸焼けしちゃうから。
ファンサイトはぐれ道の第17話(2001/08/01)「最後の家族旅行!?光る泥ダンゴの秘密 」
『はぐれ刑事純情派』のフィルム時代とビデオの今の映像は、河合克敏『帯をギュッとね!』の5巻までと15巻以降くらい画面が違うと思うけど、どうか? 明らかに前のほうが美しい。
*前。
有里さんの方で、図書館を利用する人・しない人、齟齬の原因とかで、もう無茶苦茶分かりやすくまとめて下さって、いやもう、私喚く人、有里さん解釈し、説明し、まとめる人という感じで、申し訳ない^3くらい。反省。有里さんにはとんだとばっちりだったと思います。
で、思ったのですが、図書館云々以前に、私が完全に「本」じゃなくて、「内容」しか求めていない人間なのだなあ、ということ。内容が全て。「本」というのは、単にその「内容」を今現在最も扱いやすい状態に留めておくメディアに過ぎないん。読むことが最重要で、所有することは二の次三の次、完全に別問題。こういう考え方は全く一般的じゃないだろうし、非常に特殊なのだろうと思う。
私の場合、本を買うのは、読む以外の目的が発生する場合のみに限られる。絶対に再読したい、手許に置きたい本というのはもちろんあるけれども、貸したい、読ませたいとか、そういう理由。いずれも既読の本にのみ適応されるもの。未読の本の場合は、著者の決め買いはもちろんするし、古本の場合はこれを逃すと出会えないだろうと思える本は買う(著者が同じ本を気に入っている場合など、限られるけど)。古書価が高くても、自分で気に入らなければ簡単に手放すけどね。それ以外は、捨て本と思いつつ買う場合か(私の部屋にはカバーのない本が結構ある)。
でも、借りているだけだと、著者、出版者へのフィードバックが何もないとか、そういうのはやっぱり気になるんだけどなあ。当然、気に入った本はできるだけ自分でも買うし、多くの図書館で入れてもらえるよう、積極的にリクエストするようにしている。むしろ、だから、小説のデータ配信システムが発達して、携帯できるような、読み易いビュアーが普及したら、私は本などというメディアは全く未練なく捨ててしまうような気がする。要するに、私にとって図書館は本の「内容」を手に入れるのに便利で合理的なシステムであり、過去の「内容」を未来の誰かへ残すために重要な機関であるに過ぎない。書物の内容がデータとして配信され、保存されるシステムができれば、私は多分、そちらの方を向くだろう。もちろん、商業的に永遠にデータを保存する企業はあり得ないだろうから、公共機関がそのデータの保存を請け負うことにはなると思うし、それが新しい図書館の仕事の一つとなるのだと思う(企業の利益を損なうことなく、どういう形で提供するのか?)。実際に物としての本というメディアが消えることはなくても、遠くない将来にこのようになるだろうと確信するし、ならざるを得ないだろうと悲観しながら、そうなって欲しいとも思う。本気で。
主人公はスタンリー・イェルナッツ4世。Stanley Yelnats。上から読んでも、下から読んでもStanley Yelnats。イェルナッツ家では、この語路合せのような名前がお気に入りで、代々息子にYelnatsと名付けている。でも同時に、スタンリー・イェルナッツは代々不運になる呪いを掛けられていたのだった。
スタンリー・イェルナッツ4世も例外ではなく、やってもいないスニーカー泥棒の濡れ衣を着せられて、更正施設グリーン・レイク・キャンプで、一日中穴を掘らされ続ける。やがてひょんなことからゼロと呼ばれるチビの少年に文字を教えることになるのだが……。
うわー、面白い〜!! てっきり更正施設物かと思って、暗いイメージを抱いてしまい、ブツ切れで読んでしまったのを、猛烈後悔中。進むにしたがってハラハラドキドキの友情&冒険小説になっていく。過去と現在が交錯して語られる、意外に複雑な展開なんだけど、それぞれの時代に生きた人々の思いが折り重なって、一つに収斂していく様は、本当に読んでいて気持ちいい。とにかく綺麗で(ご都合主義と言ってはいけない)、これがエンターテインメントだよな。明快爽快な小説はしばらく読んでいなかったので、余計インパクトが強かった。楽しかった〜。
ところで、これ、やおい的に読みどころが結構ありませんかね? 私にはやおいの目がないので、自信がないけど。
表紙は青い海の写真。うーん、でもハードカバー版の黄色い紅型の模様っぽい表紙が気に入っていたので、写真のような「リアル」なものだと、違和感があるなあ。
しかし、どこから開いてもオモシロいったらないよ。思わず時間を忘れてぐんぐん読んでしまう。にしても分厚い。ページに字がぎりぎりまで詰まっているのも凄い。確かに上下巻に分けるよりも、一気読みのほうが合う内容なので、夏休みにだらだら汗流しながらぐでーーーーーーーーっと読むのにお勧め。ゆっくりじっくり読んでおくれ。
MZTさんがカナダでマイクル・コニイを買いまくっている。いいなあ。やっぱり寒い海辺の町に変な機械や大きな動物や、無茶苦茶嫌な女が出てくる小説なのだろうか。
実は、コニイは時間差でコンプリートしていたのだった。つーか、初めて読んだ『冬の子供たち』のコッケードのあまりの嫌さに耐えられず、ちょうど欲しがっていたu-kiさんに譲って、その後『ハローサマー、グッドバイ』を借りてはまり、あっという間に『カリスマ』『ブロントメク!』も揃えたのに、まだ読んでいない。
ディレイニーも『エンパイア・スター』を読んで感動し、『時は準宝石の螺旋のように』も『プリズマティカ』も手に入れたのに、読んだのは別に入手が難しくない『バベル-17』『ノヴァ』だけだったり。やっぱり手に入れちゃうと安心しちゃうんだよなあ。読まないと。本棚で腐らせておくのは勿体無いから、今は結構貸出中なんだけれども。
結局ぼーっと休日を過ごすこととなり、涼しかったし、昼寝三昧しようかなあと思っていたけど、それだけだとあまりに無為。かと言って、水泳にも気が進まない。日曜日は2時間転がりに行けるんだけれども、あまりやる気が出ない。でも、ふとモスバーガーの玄米フレークシェイク木苺を食べたくなってきた。ちなみに、225kcalらしい。まあ、カロリーなんて足し算引き算の問題じゃなくて、取ったものは効率よく消費すればいいわけで、それを口実にプールにいくことに。
自転車の鍵が見つからなかったので、歩いて十数分。でも、調子が悪いのか、水が重くて、腕をかいてもスカスカ逃げちゃう感覚。体力だけはあるので、息切れはしないんだけれども、全然進まない。面白くないので、40分でギブアップした。
その後、スッ転んだのだった。プールサイドから引き上げ、シャワーに行くまでの3段ほどの段差で足が滑りって後ろに転び、腰を擦った。最初は単に打っただけだと思っていたんだけれども、自分じゃ確認できないし、更衣室にいたおばさんに見てもらうと、「真っ赤よ」とのこと。更衣室には、バストショットの鏡(?)しかなく、なんとか背伸びして見てみたところ、熟れた桃のようだ。触ってみると、擦り傷からちょっと出血していた。
とりあえずシャワーで洗い流して、靴擦れ対策用の小さな板創膏をおばさんにはってもらう。傷は他にはなし。「頭を打たなくてよかったねえ」と言われたけど、そこはとっさに受身をとったと思いたい<嘘。いやしかし、ここで頭打ったら大間抜けじゃん。着替えてみると、ちょうどズボンのベルト部分にかかる感じで、いやーん。ちょうどそこに監視員のお姉さんが通りかかったので、やっぱりマキロンと大型の板創膏で消毒してもらった。マキロンなんて何年ぶりよ。
んで、張り替え用の板創膏と、冷えピタ、玄米フレークシェイクを買って帰宅。シャワーを浴びて、身体を洗い流した後、なんとか鏡を見ながら、自分で貼ったんだけれども、本当に一人暮しだとこういう時困るんだよなあ。大怪我じゃないからいいけど。しばらくはプールはお預けだな……。とほほ。
それが遠い過去からの約束だったという場合はあまり多くはなくて。
本好きなら誰しも、「これは私のために書かれた本だ!」とか、「私はこの本を読むために生まれてきたのだ!」という感動を味わうことが、まれにあると思う。一生の内、実際にそういう運命の本に出会う可能性というのは、どの程度まれなものなんだろうと考えた時のこと。
興味を持っている分野の中でのストライクゾーンの広さは、人によってそれぞれだと思うけれども、この場合は「運命の本」という大袈裟なモノを求めているので、ピンポイントのど真ん中直球だけを求めるものとする。
その興味の範囲も、時と共に移ろうものである。だいたい興味のあるものに対してはアンテナを張っているものだが、ちょっとデンパの角度に対してずれていたりすると、引っかかりにくいものである。実際に存在し、見える場所にあっても、目に入らないこともあり得る。人生の内、「そこ」に興味の方向が向いている時期にだけ、その本と出会うことができる。
さらに、物凄く面白い本に出会ったときも、例えば「ああ、これを高校生の頃に読んでいたらなあ!」と思うことがままある。年齢的な条件はもちろんのこと、興味のストライクゾーンも常に変化している。まさに「そこ」に嗜好がある瞬間に読まないと、同じ本でも運命の本たりえないのではないか。
ちなみに一日に発行される本の点数はだいたい250点くらいである。そのうち、例えば、「小説」というように、ジャンルや分野を限ってしまえば、点数はがくんと減って、目に入る割合は増えるのだが、そもそも、どれくらいの本が自分が行く本屋に配本されるのか? そのジャンルは配本されやすいものなのか。配本された本の内、興味がその本に向く割合は。配本された本が、どのくらいの時間店頭に並んでいるのか。その期間中に店頭を訪れる頻度はどの程度か。マメに本屋を回る人ほど、出会いの確率は上がる。
店頭に並んでいる本に興味を持ち、購入して、実際に読むに至るまでの、時間的金銭的その他もろもろのハードルを超えられるか。
また、本そのものの寿命も、今はずいぶん短くなっている。品切れ、絶版になるまでのわずかな期間に、その本の存在を知ることができるか。手に入れることが出来るか。
店頭に見えないような本の存在を知るためには、何らかの別の情報源がなければならない。評判になっている本であれば、その存在を知る可能性は高いだろう。その本の周知度、情報の発信度が高ければ高いほど、出会う確率も高まる。興味を同じくする人が、周囲にいても、情報量が増えていいかもしれない。
それ以前に、人類の歴史のうちで、本を手軽に入手できる時代の割合(そこに生まれる確率……って、そうじゃない時代に生まれたら別なものに興味が行っていて当然なんだけれども)、全世界で本を手軽に入手できる地域の割合、その本を理解可能な言語で(翻訳含む)読める確率(他の言語が読める人は対象となる本の幅が広くなる)、特定の作家さんの執筆時期に生きて、読書をする確率、存在する娯楽の中から読書を選ぶ確率とかまあ、どうでもいいことを無茶苦茶適当に色々考えていると、ああ、天文学的な確率の低さになっちゃうわ!とか考えたのだった。
んで、文字通り天文学的にドレイク方程式という発想になったわけですな。全然違うってか。図書館だと、今発行された本も、かつて発行された本も、等価に見られる分、結構色々な制限が外れると思うんだけれども、どうなんだろう。
まあ、これから出会う可能性を考えてしまうと、いつか王子様が的、ドリーミングな発想ではありますが、「運命の本」。でも、本当に感動した本に出会ったときに、偶然と必然によって導かれた長い道程を思い、「素晴らしい出会いをありがとう!」と小田和正『ラブストーリーは突然に』のサビを歌ってみよう。
漫画と小説を比べたら、漫画のほうが枚数の制限がきつそうで、それが内容に与える影響も大きいんだろうなあと思うけれども。
おいてけぼり、という感じだった。ロケットに関していえば私は何も知らないに等しいので、スペックとか、克服すべき点とか、難易度とか、これがどれほどの物なのか、こいつら自身がそれをどう捕えているのかとか、そういうったことが今一つつかめず。友達関係も、タメがなくて、共感したりするところまでは全然行けなかったし、一緒になって興奮することも出来なかった。これを3倍の分量で読みたかったなあ。
【bk1】
で、次に読んだのが、これ。無茶苦茶時間がかかった。疲れた。最後の絵日記は苦行だったんだけど、四コマ漫画をこれだけ長い間続けるのは、並大抵の苦労ではないだろうなあ。自虐ネタが多いし、鬱屈しまくっているし。でも、何かと笑えるのが凄いわな。お疲れ様でした。有難うございました。
新作『タカハシくん優柔不断』【bk1】も、スズキトモユさんのレビューを見る限り、なんか大変そうだ。読みたいような、読みたくないような。
「Calling You」「傷─KIZ/KIDS」「華歌」収録
【bk1/amazon.co.jp】
なるほど、一日で読めた。今日は電車に結構乗ったからということもあるけれども。
「運命の本」(*1)の話じゃないけど、中学の頃に出会っていたら、はまっていたかも。じゃないな、15年前に読んでいたら、ちょうど良かったかもしれないなあと言う感じ。なんとなく、古風です。
「傷─KIZ/KIDS」は、良品。使い古されているネタではあるけれども、まとめ方や運び方が非常に綺麗。
なのだが、あとの2つは。
全体的に、良い短篇集だと思った。というか、良いところがよく見えるんだけれども、悪いところがあまりにもよくわからないため、マイナスに加算されないような、不思議な感想。なんでこうなるの。
とりあえず。「Calling You」は、主人公のマイイメージにちょっとついていけなくてアレだったけれども、「華歌」はシチュエーションの奇妙さもあって(こういうヘンテコリンな物では『ぬかるんでから』の記憶がまだまだ生々しすぎてそっちを思い出してしまう。全然違うのに)、まあ、すらすらと読めていたのだ、オチまでは。
以下、猛烈にネタバレ=>叙述トリックって、オチを読んで、そうだったのかと納得し、それまでの話全体が腑に落ちるものだと思うのだが、この2編は、オチを読んだ瞬間に、今までそれなりに納得ずくだったはずの展開全てが「へ、何で?」に摩り替わってしまうんだけど、こういうのって、どうよ? やらなくてもいい小手先のひっくり返しと言うか、なければないで話の座りがいいのに、どうしてわざわざこういうことをするのかが、全然分からない。
「Calling You」。彼女が事故を避けるチャンスは、2度あったはずなのだ。リョウとシンヤの時差、それからリョウとユミの時差。ユミが事故について全く臭わせない(リョウが一度質問しているけれども、伏線とは呼べないでしょう)、そのことについて全く葛藤がないかのように見えるのが納得いかない。そこが切なくしどころでは(『最終兵器彼女』でも触れたが、私が「全て終わっている場所から、とつとつと語られる「あの頃」の物語」に萌えるということもあるけど)。タイムパラドックスなど起こり得ないと、全て「既に起こってしまったこと」として(ラジカセがある限り、ね)、ユミはそこまで悟りきっているのか? そりゃあ、あまりにもあんまりでは。つーか、ラストの2段落、無茶苦茶酷くないかい。無神経じゃないかい。「今、いろんなことに傷ついて」って、これが「これから」ならぐっとくるのに。思いっきりげっそりして、切なさも吹き飛んでしまいました。
(2004.05.21追記)
要するに、「これから」死んでしまう人がいる。しかも、「私」にとって、その人は大切な人だ。さらに、その死の「要因」が、「私」の行動そのものであった、その「死後」から「今」まで、私は嘆き悲しんだ。他人には説明できない事故、誰にも打ち明けられない悲しさ、共有し、受けとめてもらうことの出来ない苦しみ、自らへの責め、ありったけの後悔を「これから経験する」「私」と、今、電話が繋がっている。
そこで「私」は何を思い、「私」に向かって、何を言ったのか。それだけ。
小説では、「私」は、「彼」が「これから死ぬ」こと知りながら、まるで何ごとでもないかのように「過去の私」に接し、「彼がこれから死ぬ」その時に際しても、何もアクションを起こさない。なぜだ? せめて動揺するだろう、違う?
いやね、私はてっきり「私」と「彼」との恋、とまではいかないけれども、初めて分かり合えた者同士の心の繋がりの物語だと思って、一周目を読んだわけです。でも、ラストを読んだとたんに、それまでの印象が黒いものに塗り替えられてしまうわけだ。数年後の「私」は、「彼」の死をなんとも思っておらず、何ら感慨も策も講じることなく、「彼」が死ぬ道筋に、過去の「私」を誘導したのだから。さてこれをどう受け入れればいいんだ、私は? ここには何が書いてあるんだ?
で、他の方に話を聞けば、この小説では、この「未来(あるいは現在)」は確定されてしまっているものだから、どうしようもないんじゃないのということらしいのだが、うーん、それは完全に「読者」からの視点であって。中から眺めてみると、今現在の未来が固定されているかどうか、タイムパラドックスが起こり得るかどうかを考察できるだけの判断材料があるか? そういうSF的な発想を女子高生が抱くか? ましてや、その発想に従って、ああまでドライに、無感動に、残酷な(必ず死ぬとわかっているのだ!)言葉を言いつづけられるのか? しかも、「過去の自分」に対して。これから何を感じ、何を経験することになるのか、一番よくわかっている「過去の自分」に対して。
過去と繋がった電話に、少なくとも一瞬でも、「救えるかもしれない」と、(方法は思いつかないにしろ)考えるだろう。どうすれば救えるかについて、本気で悩むだろう。で、「彼が救われた未来」と「今の自分」の存在が矛盾する(かもしれない)ことを思いつくかもしれない(し、思いつかないかもしれない)。仮に、「私」が、彼を救う方法がないという何らかの結論を得られたとしよう。だから何も行動せず、あくまでも冷たく、心を鬼にして「彼」が必ず死なざるを得ない道へ、「過去の私」を経験した通りに誘導したのだと仮定しよう。でも、それを思いつくために、「私」は、死ぬ程頭をひねらなければならないはずだ。「今」がただ一つの「未来」であって、「彼が救われる未来」が存在し得ないことを、あそこまで無感動・無関心を演じられるようになるまで、心と理性の奥底から確信するためには、ありとあらゆる場合を想定して、「現在ある未来」を覆そうと考えたはずだ。
……、いや、私ならそうだろうなあと思うだけと言えばそれだけの話。ほのかに恋心を抱いていた相手が目の前で死んでしまった、そのことを防げるようなチャンスが、今またふたたび自分に巡ってきたのだとしたら、さあどうする?と、そういうシチュエーションを自分に当てはめた場合の話だ。
せめて、時間のねじれを知ったときに動揺してくれれば、もう一度救えるかもしれないという可能性に望みと喜びを見出してくれたら、結果的に救えないことに死ぬ程悲しんでくれたら、共感できたのに。いや、動揺してくれるだけでいいよ。うん。なのに、動揺もなし?
本当に、私は、「未来=今」が変えられるのか、あの「死」をなかったことにできるのかどうかを問題にしているわけじゃないんですよ。「私」が、どう感じ、何を思い、どのように行動するのか、ということだけ。
それだけ、なんだけどなあ。やっぱり受け入れられないわ、このオチは、私には。
「華歌」。この人がこういう人で、こういう理由でこういう所に入院していたなんて、書かれるまで全くわからなかったんだけど、そうとわかった後で読み返してみると、足りないものが多すぎないか。母に産んでもらったのに申し訳ないとたびたび語られる裏に、当然そのことが触れられてしかるべきで(触れないのは不自然だし、ありえないと私は思うし、精神的な障壁があったとしても)、なんでそこに翻らないのかが全く納得できない。上手くそういうことに触れないように、アリバイ作りをすればものを、小手先の付け足しだけで後からちょろっとひっかけたところで(喋り方と、挿絵と、名前のひっかけもスマートじゃないし)、ひっくり返るってものじゃない。というか、これ、ひっくり返す意味が全くないように思える。そのままでいいやん。充分それなりに雰囲気が良かったのに、台無しでは。わけが分からない。
-
実際、どうにかすれば彼のことを救えたのか、どうすれば良かったのか、などということを言いたいのではない。そんなことは私も知らないし、正直どうでもいい。--追記ここまで
でもまあ、読みやすいし、こういうのがスニーカーにあるんだというのが新鮮だった。でも、切なさも全然足りないし、私がネガティブに捕らえるところの、単なる癒し系になっちゃっているような。良くもなければ、悪くもない(というか、最後の最後で悪くされるので、それはなかったことでもいいや、みたいな)、こういうものなのだろうという印象に留まってしまう。勿体無い。
癒し系じゃないやつを読んでみます。
「私は、自分の考えをまぎらわすため、夢想の中で、想像を絶する幻の宮殿を、並みの人間の才能が思いつく限りのもの(洞窟や、塔や、庭園や、城や、美術館や彫刻)を建て、原初の時代の古い建築のすべてをよみがえらせようとしたのだった。」(シュヴァルの「ノート」より)しがない郵便配達夫が、三十三年という歳月をかけ、たった一人で築き上げた夢の宮殿。その驚くべき真実。
空間をデザインするだけでは人は来ない!2時間、3時間待ってでも入りたい人気の秘密とは?集客をデザインする力を徹底解明。“美味しく遊ぶカレーのテーマパーク”で集客をデザインしてみせたクリエーターたちがいま明かす、成功へのメイキング・ストーリー。
「触れること」は「癒すこと」。けっして動物に無理を強いず、患者となる動物たちの体の仕組みを熟知し、指先だけでかれらとコミュニケーションをとりながら施療にあたるグリエルモ先生が、動物マッサージ療法士としての揺るがぬ自覚を確立させるまでの数々のエピソードを、ユーモアと感動をちりばめて綴る動物ノンフィクション。馬のチャンプ―しつこい痛み;イルカのシンディを助けたい;セイウチのヌーカ;イルカのタブとプレスリー―水族館のやんちゃ坊主;マンボポイント―電気ウマたち;キズものフェレット;ペンギンのルーディ;各犬各様マッサージ;猫のミッキー、陥落する;シロイルカの舌を掻く;イルカ・マッサージ・マラソン;イルカのシンディを助けたい2;セイウチのワンダ、切羽つまる;ウサギのスナッグルス、跳ねる;初のサメ・マッサージ成功例(ご家庭では絶対に真似しないでください);カメのどこにタオルをかける?
……かめ?
8/10MBSラジオ26〜27時。大阪ローカル。
20世紀の最高傑作!エッ、もう21世紀じゃん…全篇新作書き下ろし。待望の第3弾。蛇腹と電気のダンス(北野勇作);皮まで愛して(草上仁);床下世界(岬兄悟);片頭痛の恋(矢崎存美);キャッツ・マター(小室みつ子);ベルサイユでポン!(高瀬美恵);デボロン人の物語・ブチッ(大原まり子)
ええい、頑固な体重め。なぜ増えないのだ。ここ数日明らかに食いすぎているのに。
豚舌が安かったので、煮込んだらまた食べ過ぎた。おなかが重い。
朝、アクセスログを見て驚いた。川島誠の『800』【bk1】のファイルに、異常なアクセスがあったようだ。一番激しかった午前2時台は、サイト内の全アクセス111件中76件が、800.htmlに集中している。一瞬、馬鹿なロボットかと思ったのだが、ほとんど全てがサーチエンジン経由で、ドメインもバラバラ。
一体何があったんだとフレッシュアイで検索してみると、すぐに謎が解けた。映画版『800』が、ちょうど8月9日(木)テレビ東京深夜1:45〜3:45の枠で放映されていたらしい(*1)。その後も、今日一日中800.htmlへのアクセスが続いた。
それにしても、部屋でテレビで放映されている映画を見ながら、検索をかける人がこれだけいるというのが驚き。しかも、『800』の映画なんて……(^^;;;;;。いや、私は劇場まで見に行って、同行してくれた友達に「ごめん」と謝りながら帰った記憶があるのだが、検索した人はどう思って検索していたんだろうか。うーん。
何にしろ、一人でも原作を手に取ってくれる方があればいいなあ。別物だけど。
本書は著者が、日本のレストランで日本式カレーライスを味わいつつインドのことを考え、アパートの狭いキッチンでインド料理をつくりながら日本のことを考え、思いつくままに料理にからめた比較文化論的なエッセイである。
「インド人、嘘つかないよ!」あの"ナイルレストラン"のナイルさんが全国をかけめぐった究極のカレールポ!カレー店全30件をカレーミシュラン星つきでご紹介。レトルト編―カレー王、G・M・ナイル参上!;カトレア―カレーパンはエジソン、いちご大福は野口英世。;カレーハウスボルツ神田店―エヴェレストに登ったヒラリーな気分がする?;古奈屋―カレーうどん、食べすぎ注意!;ナイアガラ―JR vs.警視庁カレーで対決する。;缶詰編―トドカレーもいいけど僕を食べた方が美味しい。;関西編(インド風たこ焼きととんかつカレーの巻。;カレー+マッサージはカーマストラの味?;カレーの時代がやってきた?);海上自衛隊編―海軍さんのカレーは天下無敵のうまみ?;マイロード―百二十万円のアデランス、タイカレーでやめた。;ナイルさん宅編―カレーを食べに、うちへおいでよ。
本書では、著者がふだん家族や友人たちのためにつくっているレシピを中心に、絶対おすすめのにんにく料理を満載しました。なにより家庭で手軽につくれること、素材のよさを引き出す料理であることを心がけました。序章 にんにく切り方・炒め方の基本;第1章 にんにく丸ごと圧巻クッキング;第2章 にんにく技あり絶品レシピ;第3章 にんにく保存食バラエティー;食材にんにくの生かし方・扱い方;にんにく便利グッズ&加工品いろいろ
なぜ、空腹にまずいものなしなのか?なぜ、デザートは別腹なのか?五番目の基本味=「うま味」と「こく」の不思議な関係とは?遺伝子レベルの「おいしさ」、学習される「おいしさ」、欠乏による「おいしさ」…。奥深き美味の不思議を、味覚・嗅覚のしくみと大脳処理から徹底的に解明する。第1章 「おいしさ」とはなにか;第2章 おいしさにはどんな感覚があるのか;第3章 噛むことの効用;第4章 味と味覚の意味;第5章 味覚のしくみ;第6章 味覚増強物質;第7章 脳はどうおいしさを認識するのか;第8章 学習される「おいしさ」
ジャングル、草原、山村、大都会、スラム…世界をかけめぐる音楽学者が聴いた驚きと発見あふれる音の世界。1 民族と音の不思議(新しい音の世界を求めて;都市の音の風景;音の世界のパラダイム);2 世界の扉を開く(アフリカ世界を生きる;抑圧のなかで;西洋世界をのぞく);3 日本と日本人の行方(伝統への回帰;国際化の扉;ポップ現代の諸相);エピローグ(夢と展望)
猫にまつわる江戸時代の奇談・異聞集。序章 江戸の不思議な猫たち;第1章 化ける猫;第2章 踊りをおどる猫;3章 ものいう猫;第4章 猫の恩返し;第5章 死者と猫;第6章 狐とつきあう猫;第7章 猫と鼠の奇話;第8章 猫と犬の奇話;第9章 怪猫あらかると
『吾輩は猫である』に描かれた猫の子孫を探して、いざ下町へ。路上観察家として活躍する著者が見つけた肥やし猫、ミッキーマウス猫、広告猫、車猫、猫実…って何!?マイペースで生きる猫たちを豊富なイラストと写真でたっぷり紹介します。見るほどに読むほどに、いつのまにやら癒される猫エッセイの決定版。キャットウォッチング(『吾輩は猫である』の子孫探しの続き;江の島・猫島 ほか);猫の居場所(猫はどこにいるか?;猫と車 ほか);古猫の尾話(特に明治の新聞記事から)(猫玉;広告猫 ほか);猫の尾まけ(猫の古絵葉書を楽しむ)(ヨーロッパには古絵葉書屋というものがある)
もしかして、今日は仕事中お腹が空いていたのだろうか……。