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ざぼんの皮 2000年 02月


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Feb.13,2000 (Sun)

『ナビィの恋』三度

 結局今日も『ナビィの恋』。前日ニムさんが立ち見だったというのを聞いていたので、ちょっと早めに劇場に行ったのだが、結構な人出。なんとか5人固まって座れたが、確かに立ち見(座布団支給の座り見)が出ていた。舞台挨拶の時はこれほどでもなかったのに、なぜ?(^^; 東京での上映は金曜日までなので、この分だと、どこかでロングランかなあ。

 3度目のナビィも良かった。2度目に増して落ち着いて見られた。ギャグも「出るぞ、出るぞ、出た〜」ってなものだ。聞き取りにくい台詞も聞き取れたし、満足。それから、ラスト、麗子おばさんが子供を抱いているシーンが1カットだけちらりと映ったのも確認できたし。いや、あれが妊娠中に……だったとしたら、すげーと思って。でも、産んでからも体型が変わっていないよ(;_;)>麗子おばさん。

 その後、他の方と合流して、近所の沖縄料理で長尻。結構色々おいしかった。満足満足。

私とざぼん

 ところで、食事の席上、私が実はページの名前の由来となっている「ざぼん」という柑橘類を食べたことがないということについて、「だめでしょー」と指摘された。むー。正確には、食べたことはあるんだけどね。

 しかし、「ざぼん」というサイトを開いたのは、95年秋だというのに、食べたのは今年の正月(;_;)。ここ2、3年、大宮の親戚の家で、ざぼんが生えてしまって、毎年送られてくるようになったのだ。もともとざぼんは、南国の柑橘で、主に九州地方で栽培しているようなものらしい。大宮というのは、生息にはあまり適さないのであろう、送られてくるざぼんは、大き目のグレープフルーツほどの大きさしかなく、皮もせいぜい1センチちょっとで、色も薄い黄色なのだ。さらに長崎出身の母によると、ざぼんは大きすぎるので落ち易く、下につっかえ棒をつけたりと色々と大変らしい。食べてみると、ちょっとグレープフルーツっぽい苦みと、弱い酸味。まあ、そこそこのみかんだった。母によると、本当は甘い甘いものらしいんだけどね、ざぼん。

 ちなみに、ページタイトルをざぼんとした由来はざぼんの年輪というプロフィールページにあるのだが、別に最初から分厚い皮を日記に、小さな実を感想になぞらえたわけではない。最初の「ざぼん」を立ちあげた頃は、日記なんてなかったし。

 さて、ナイスタイミングで、今日ZABON de ガボンという漫画系ページから、ざぼん仲間としてのリンク依頼が届いた。こんな私でもざぼん仲間にしていただけるらしい。有り難いことであるm(__)m。

きょうもひとつかしこくなったね。

 最近ページが移転した愛・蔵太さん、この名前は、「ラブ・くらふと」と発音するのが正しいらしい。おおっ! 結構感動したのですが、常識?(;_;) 今までずっと「あい・くらた」さんだと思っておりました。失礼しました。

準備万端

 FMアンテナ設置方法について悪戦苦闘していたところに、オーディオドラマ(ラジオドラマ)の世界のmotiveさんから、テレビのアンテナでFMをとることができるということを教えていただいた。有り難うございます。そこで、電機屋へいそいそと出向き、ちょうど同じ型のコンポもあったので、説明してもらった。

 っても、こんなことは常識かもしれないが(;_;)、テレビで使う同軸ケーブルの、周りから出ている細い線を束ねてねじって1本にし、真ん中の線とそれぞれをコンポのFM端子につっこみ、もう片方をテレビのアンテナの差し込みに指すと、それでOK。道理でアンテナの差し込みが2つあるわけだよ、うちの部屋('-')。色々と感心した。

 さあ、これで準備万端!!
寮美千子『小惑星美術館』(パロル舎)が、NHK-FMでラジオドラマに!!
「青春アドベンチャー」枠全10回
出演:高山みなみ、玄田哲章、高木均、中尾隆聖、天野由梨、瀧本富士子、神宮寺弥生、弥永和子、島本須美
2000年2月14日〜18日/2月21日〜25日  22時45分〜23時00分
2月21日〜25日/2月28日〜3月3日 17時45分〜18時00分(再放送)

去年の俺様

Feb.14,2000 (Mon)

ラジオドラマ 寮美千子『小惑星美術館』第1回

 そ、その声(高山みなみ)で「ラン」(注:犬の名前)とか言うな〜(笑)。ユーリのビジュアルイメージがどんどん江戸川コナンに〜!!

 アレンジがかなり利いていますな。いい感じです。ところで、もしかして、ラグが島本須美?

 さすがにテレビのアンテナに繋いだだけあって、音はすんげークリア!! ありがたや〜。

 一個所だけ、気になったのだが【お弁当、ああいうこと(ことさらに、人からその特殊性を認識させられるような行為)をするのだろうか。ストーリー上、母がいないというのは重要なのかもしれないが、川島誠キャラなら表面は取り繕っても、「無神経な奴」と鼻で笑うか、萎えるか、しそうだよな(^^;。そっち方面に歪まれると、嫌かも。

 「だからって、あなたは、私が片目だなんて言わないでしょう?」
 「うん、ぼくは片親じゃないしね」(川島誠『夏のこどもたち』より)
】。

井上夢人『オルファクトグラム』

 読了。

 自らが参加するインディーズバンドの初めてのCDを届けに、姉宅を訪ねたミノルは、全裸で縛り付けられた姉の姿を目撃した直後、何者かに殴打されて意識を失う。そして、1ヶ月の眠りから目覚めたとき、ミノルの見る世界は一変していた。匂いが「見える」。突如発現した犬並みの嗅覚で捉える情報が、それぞれ結晶のような独特の色と形で、捉えられるようになってしまったのだ。ミノルはその能力を使って、姉の殺害直後から行方不明になってしまったバンド仲間を探そうとするが……。

 小説は、言語で書かれている。当り前だけど。「匂い」という普段あまり言語化しない情報を、どう小説に書くのか。この小説では、ストレートに「蜂蜜のような匂い」だとか、その匂いに含まれている情報を「焦りの体臭」などと言語化するのではなく、一旦ビジュアルイメージに落とし、さらにそれを言語に変換することによって、豊かで異質なイメージとして、ミノル自身の戸惑いとともに読者に捉えさせている。上手い。

 ジャンルを言ってしまえば、超能力SFになるのだろう。ミステリーとしては、一応殺人事件が本筋ではあるものの、そちらは中途半端というような気がする。サスペンス味も。とは言え、楽しい超能力物としてはかなり面白く読めた。

 >ネタバレ【なぜ、どういう方法で犯人は血を抜いていたのか、なぜ人妻ばかりを選んだのか。何にでも理由を求めたがるというのは悪い癖なのかもしれないが、冒頭のむごたらしい描写から湧き起こる犯人に対する怒りの行き場が最後まで見つからず、座りの悪さを感た。あと、あの手は屋内だと通じなかっただろうに、とか。

 ラストに進むにしたがい、嗅覚の代わりに失ってしまうものについても、もうちょっとこだわってほしかったなあ。だんだん順応していく、その結果なんだろうから、そうそう劇的なショックはないのかもしれないが、マミいじらしさが切ない。】<ネタバレ

 ところで、私は井上夢人(岡嶋二人)の書く若い男女のカップルのラブラブ描写が、結構好きなのだった。『殺人者志願』は鬱陶しかったような気がするが、今回は良かった。うーん、ラブラブ('-')。

「萌え」こそすべて

 妹尾ゆふ子さんによると、キャラ萌えの定義は、あるキャラクターを、そのキャラクターが本来属する世界から切り離し、ほかの場所に連れていっても楽しめるような、のめりこみかた。なのだそうな。うーん、そうなのか。

 私は自分で、結構萌え体質だと思っている。が、なんだかこの定義はピンと来なかった。今、私が萌えているキャラといえば、『ナビィの恋』の恵達か(^^;(「SPA!」では、"沖縄の小妖精"とかいうナイスな枕言葉を付けられていた)。必殺入れ歯外しとか、必殺セクハラギャグは、何度も見たいと思わせられるし、もう萌え萌えなのだが、別に余所のシチュエーションに持ってこようとは思わない。あの映画の、あのストーリーの中でこそ、「恵達」だもんなあ……とか。

 で、昨日、その理由にふと思い当たった。晩御飯の席で、先日落ちてしまったM-Vについて話をしていた時のことである。みんな宇宙作家クラブ掲示板の笹本祐一さんの記事(2/10/13:05前後)「第1段の燃焼中にロケットが急激にピッチアップ(立ち上がった)したおかげでロケットの水平成分 の速度が減少したのが今回の失敗の原因。(中略)ただし、1段目のミスをリカバーするために2段目、3段 目はフルに活躍している。」を読んで、「あれはすごいねー」と言っていたのだが、その時、私は自分がロケットに対して萌えているのに気がついた。なんじゃこりゃ? 私は人外のモノにキャラ萌えする体質だったんだろうか?

 よくよく考えてみれば、私が萌える要素というのがいくつか分かってきた。怪我を圧して戦うとか、病気なんだけれども行かなきゃいけないとか、ジレンマとか葛藤で悩み続けていたりとか、そういうキャラに萌えていたのである。そうか、「キャラ萌え」しているわけではなくて、「シチュエーション萌え」体質なのだ。恵達だって、少ない台詞の中に、物凄い葛藤を秘めていて、そこがいいわけだし。んで、葛藤が足りん奴には全然萌えなかったりするわけね(笑)。

 自分でパロディとか描いた時も、キャラを別の場所へ持っていくようなものではなくて、物語の中で繋れていなかった部分を想像するようなものばかりだったような気が(^^;。私にとっては、物語のシチュエーションから切り離した単体のキャラクターというのは、あまり価値がないらしい(でも、ギャグパロとか好きなので、全くというわけではないのだよ)。だから全然やおい読みも分からんのだな('-')。

 でも、シチュエーション萌えって、ある種制服萌えと通じるところがあるような気がしないでもないんですが、うーむ(--;。

リニューアル

 牛の歩みで進行中。手始めに、読了記録のページなど。

去年の俺様

Feb.15,2000 (Tue)

愛していると言ってくれ(北村薫関係)

 北村薫地雷っすか……(^^;。ちょっと迷ったけれども、踏んでしまいます。どかん!!

 んにゃ、つーか、りなりなさんとはオフラインでもお話しているので、ちょっと色々聞いてみたかったりするのだった。

 確かに読む順番というのは、影響があるとは思う。一番最初に読んだものの印象が悪くて、手に取るのに尻込みしてしまうとか。例えば、最近私がプッシュしている池上永一ですが、『バガージマヌパナス』は正直今一つという印象だったが、『復活、へび女』はすごく良かった。一つには、『バガージマ』を読んで、沖縄のユタ文化なんかの予備知識ができたからだとか、あの能天気な雰囲気に免疫が付いたからということがあるかもしれない。そういう場合でも、読んだものが単体で面白ければそれでいいっす。

 『スキップ』に関して言えば、周囲の評判の影響というのはあるかも。自分的には行間と欠落で書いたとおり、北極並みに寒いお話だったのに、周りが「良い良い」というので、過剰に何とかして愛を見つけようとした結果、どつぼにはまっているような。これに限っては、すんげー私の方がドリーマーしているんです(;_;)。何とか、どこかに愛の痕跡を見つけたくて。この夫婦(親子)にも愛はあったんだ、と思いたいのが人情ってものでしょう。

 でも、まずこのお話を寒いと感じるか否かが誉めている人と私との断絶なんだろうと思うんですが、誉めている人の感想を読んでも、どうしてそうなるのかよくわからない(;_;)。旦那(娘)は「あのお方」を愛していたのか? そして「真理子さん」が来た今、一体誰を愛しているんだ?ってことがずーっと引っ掛かっています。普通に読んだら気にならないところ、なのでしょうか。どうなんでしょう?(^^;

 あと、読み方の問題。私は詰め将棋的読み方をしているらしいというところも原因なのかも。普通じゃない? もう「読み方」ということが、さっぱりわからなくなってきた。

 以下、行間と欠落で書いたことの繰り返しで、「真理子さん」側の話。裏返しただけで、全然新しい要素は入っていないので、アレかも。つーか、頭の整理たれながし。ちょっと後で真面目にまとめるです。うううううう、ヤなサイト。

 ネタバレ>

 愛している人に、「替わり」は有り得ないと、私は思う。たとえその人がどれほど優れていたとしても、他の大切な人の「替わり」に愛することはできない。別人ならば、別人として、その人として愛するものではないのだろうか(これは私の個人的な考え方。読み方以前に人間の捉え方の差、というのもあるんだなあと、最近痛感したので、ここらへんでずれているとしたら、難しいのかも〜(;_;))。

 夫や娘にとっては、「あのお方」こそが本物で正常な桜木真理子であり、いつか「元に戻る」ことが自然であることは明白だ(よね? 確認。それとも、これも深読み、裏読みになってしまうのか)。が、そういうことを口にもせず、願いもせず、いとも簡単に、たいした葛藤もなしに、真理子さんを「あのお方」の「替わり」として受け入れてしまう。この展開に、かつて「あのお方」との間に失い難い愛があったのだと考えることは、私には難しい(行間と欠落参照)。

 スキップした真理子さんを、「あのお方」の「替わり」ではなく別の人、真理子さんそのものとして愛するのならば、はっきりと「私は私。あの人じゃない」と、「あなたはあなた。あの人じゃない」と、認めて欲しかった。そして、「あのお方」の喪失を、悼んで欲しかった。現在の桜木真理子が"記憶喪失の「あのお方」"ではなく、「あのお方」の肉体に入り込んだ「真理子さん」という人格として存在し、これからも存在しつづけることを認めることは、「あのお方」の「死」を認めることだ。「あのお方」の「死」なしに、真理子さん単体の人格はありえない。「あのお方」の死を認めることは、想像を絶する苦痛と葛藤を家族や周囲の人々にもたらすだろう。肉体は生きている。でも、人格は元々肉体にあったものではない。その理不尽な「事実」を「事実」として受け止めない限り、「真理子さん」が「あのお方」ではないと言うことはできない。あくまでも、17歳の少女がスキップしてきた「時と人」というテーマの物語であれば、そうせざるを得ないのではないか。 ここに真正面から向かっていって、見事に着地したのが、私にとっては東野圭吾『秘密』になる。

 「いつか元に戻る」という「希望」がどこかにある限り、「元」という感覚がある限り、そこにいる桜木真理子は永遠に「ニセモノ」でしかない。あのままでは、桜木真理子は、愛したことのない夫の愛されたことのない妻として、生み育てた覚えのない娘の母として、「あのお方」の「替わり」に愛され、記憶喪失の(異常な)妻・母としていたわられ、自らの人格は愛されることなく、自分のものではない「あのお方」の人生の延長をたどり、「あのお方」の「ニセモノ」を演じつづけることになるのだろう。妻や母や教師という自らが選択したものでは決してない立場が、彼女からあらゆる未来と自由と権利を奪い去り、一度も「自分で」恋をすることもなく縛り付け、一生を終えるのだろう。私にはこれ以上後ろ向きで後味の悪いバッドエンドは思い付けない。

 「あのお方」の人格の死を周囲の人間が認めて初めて、真理子さんは他の誰かのニセモノでも出来損ないでもない一つの人格として受け入れられるようになるのではないか。そして、真理子さんが真理子さん自身の心で夫ともう一度見知らぬ二人として出会い、恋して、互いに愛しって、「結婚していい」と思って初めて、夫とドライブに行くラストがハッピーエンドに成るのではないか。

 でなけりゃ新田と駆け落ちしろよ。新田が愛する相手は「あのお方」であって、真理子さんではないかもしれないけれども、自分の心に少しでも好意があるのなら。教師という立場も、誰かの妻という立場も、「あのお方」の物ではあっても、真理子さんが選んだものではない。真理子さん自身が己を殺す覚悟で「あのお方」の「替わり」になるのならそれでもいい。だが、そうでないのなら、自分で考え、自分で歩き、自分の心の赴くまま、自分で愛し、自分で生きろ。それがどんなに困難であろうとも、自分の魂を捨てるよりかはいい。それが「前向き」ってものではないのか。ケセラセラでもいいけどさあ……。これも、人間に対する捉え方の違い、なのかも。<ネタバレ

 頼むから、誰か、愛していると言ってくれ!!(;_;) なんか、愛愛って繰り返しているワタクシの方が寒いよ。

 一つ、Webで見つけた感想に、「北村薫は男性なのに、どうして中年女性の気持ちがこんなに分かるんだろう」というのがあって、真面目に感動した。そう、確かに中年女性が物忘れという読み方なら、筋の辻褄は合うし、夫が誰を愛していたのかということも引っ掛からない。ただ、私は字面読みなので、「17歳の女子高生が」と繋れている以上、それをはずすのは、かなりアクロバティックで真似できないと思いますが、そこを無視できればOKなのかも……、っておお、あおきさんも反応が。

 それと、やっぱり、あの優等生描写が受け入れられるか否かは大きいと思います。私はどうにも受け入れられない。関係ないけど、『フィーチャー』の1月号の『ひねり屋』の書評で、その冒頭の一文に「昔から、子供が天使か悪魔かという問い掛けは繰り返されてきたが」とあって(手許にないので、不正確。これ以降の論調は好感が持てるんだけど)、それを見たときの感覚に近いかも。子供は天使でも悪魔でもない、人間に決まってるでじゃん、と思ってしまう人間には、不向きな作家なのかも。でも、この高校描写自体が、話全体の筋から外れていると思うのは変なんだろうか。

 wimさんが、北村薫のキャラを「性善説的な」と言うような言い方をしていたような気がするけれども、そこがまた駄目なんだろうなあ、私にとっては。辞書によると、「人の本性は善であり、不善となるのは欲におおわれるためだという孟子の説」(三省堂新明解第5版初刷)となっているんだが、前半はともかくとして、「不善」って何よっつーか、欲におおわれて何がワルイのっつーか、世の中そんなに汚いものじゃないでしょっつーか、善とか悪とか二元論はやめてよっつーか、そのケッペキさが馴染めん理由なんだろうなあ。

 雪樹さんによると、『空飛ぶ馬』を読むと、北村薫の良さがわかるらしい。これまで読んできた3作では、他の方々の言う上手さというのが全然わからなかったのだった。ので、よし、これは絶対に読むです。但し、『スキップ』『盤上の敵』と同じく新幹線で……(^^;。7月か8月かなあ……。

 つづく。

去年の俺様

Feb.16,2000 (Wed)

寮美千子『小惑星美術館』へようこそ!

 昨日の15分間叫びっぱなしには相当疲れたが、全体的には無茶苦茶いい感じですやん。正直言って、これまで、原作を先に読んでいるものでいいと感じたラジオドラマは皆無であった。神林長平『完璧な涙』は、あまりにぶっ飛びすぎていて、同じ物であるという評価ができなかったので、除外ね。すんげー好きだけどね、ラジオドラマ版。川島誠『800』は論外。湯本香樹実『夏の庭』は原作者本人が脚本を手がけたものなので(湯本香樹実には、1988.12.24放送FMシアター『星眼鏡』という傑作がある)、ノーカン。竹宮恵子『イズァローン伝説』だけは、結構楽しめたかも。

 が、『小惑星美術館』はいいぞ。イメージは、色調を押さえ気味だった原作に比べて、かなり原色味にアレンジされているが、ラジオドラマとして本当に楽しめるものになっている。ううむ。

 逆に、ラジオドラマを気に入って原作を手に取ったものは、大抵ファンになってしまうものだという経験が私にはある。初めて聴いたのが、長野まゆみ『少年アリス』。そして、村田喜代子『盟友』(この辺りのラインナップを見ると、当時(中3)の私には、やおい的資質があったにちがいないと思えてくるが)、ユルゲン・ローデマン『最後の惑星』、ボブ・ラングレー『北壁の死闘』等々。今でもお気に入りなんだな、これが。

 さて、今日放送中に、うちのサイトにMSNサーチで「小惑星 美術館」で検索した方があった。そして、放送後にも、Yahoo!で「小惑星美術館」で検索した方があった。その直後、Yahoo!から「寮美千子」で検索した方もあった(それぞれドメインは別!)。こうしてラジオドラマから、原作に興味を持ち、手にとって読んでくれる人がいるのだろうと思うとワクワクする。

 それにしても、久々だなあ、明日の放送が楽しみという感覚は(;_;)ノ。

 さて、久々に寮美千子ファンページに、ぐうたら雑記館より『ノスタルギガンテス』リンク追加。

永久に美しく(北村薫関係)

 昨日のつづき。

 昨日の私の悶え叫びに対して、あおきさんからレスが。

 ネタバレ>
 旦那があくまでも「桜木真理子」が一時的な記憶喪失であるとしか見ていないというのは、多分そういうことなのだろうと私も読みました。だったらせめてまず病院に連れて行くなりして、記憶を戻そうとするアクションをしろよとか、そんな妻に高校3年生を受け持たせるとは、同じ教師として(人間として、旦那として、)無責任すぎるのでは、というようなツッコミをしたくなるのですが、旦那の妻に対する対応っぷりの筋は通る。あのおぞましい台詞も、旦那がそう思っているのであれば、全くもって非常に自然な言葉だし。

 ただ、それでもやっぱり「17歳の真理子さん」の人格は救われないと思ってしまいます。旦那にとっては、「17歳の真理子さん」が消失し、「元の桜木真理子=あのお方=正常な妻」に戻ることが望みであるということなのだから。仮に、最後の方で真理子さんが旦那に惚れ始めていたとしても、それは虚しいこと……。だって、旦那は「17歳の真理子さん」のことを愛しているわけではないのだから。存在を認めてさえいない? さ、寒い〜(;_;)。寒すぎる〜。

 多分、娘の方も、記憶喪失の母と認識しているんでしょうが、以下同文。

<ネタバレ

 それから、【25年という時の重み】を重要視するかしないか年をとることを否定し若さだけを強調するかのような描き方にはとても共感できないというのは、すんげー同感です。相当「時と人」の関係を軽んじているような気がするのですよ。でも、これって、「時と人」ってシリーズなんですよ……。私にはとてもそこいらを無視できません。

 雪樹さん(2/16)の「読者へのこれからの人生へ捧げる愛ある訓示」ってのは、すみません、わからないっす〜(;_;)。

ATフィールド発生装置

 りなりなさんの"北村薫世界の霧"について。

 例えば、新井素子のもとちゃんワールドというのは、分かりやすいと思う。あの特殊すぎる文体(と、誰が主語やねん!レベルの文章)の力はすごい。新井素子に全く触れたことのない読者でも、1ページ読んだだけで、他の小説とは全く違う、当然現実とも違う「新井素子ワールド」に入らざるを得なくなるだろう。その善し悪し、好悪は別だけど、あの文章は、「新井素子ワールド」を形作る新井素子フィールド発生源として、充分すぎるほど機能しているのではないか。初めて見たエリマキトカゲのエリマキ並みに人をひるませる力があると思う。「ごまめ」(鬼ごっこなどで、年下の子供が参加する時になどに、手加減すること)読みせざるをえなくなるというか(^^;。相当失礼だと思うんですが。

 では、北村薫ワールドの霧―フィールド発生源は何なんだろうと考えてみた。りなりなさんには効果があって、私には効果がないもの。

作者が先生で読者が生徒、という関係を持たせる作用もあるようで、何故かとっても優等生の生徒になりたくて、丁寧に授業を受けてしまう空気なのです。

 というのがミソなのではないかなあ。

 私は、『スキップ』の高校の描写が、延々と続く不要な中だるみにしか感じられなかった。だって、本筋であるところの、「17歳の女子高生が42歳の肉体に」という設定が全く活かされないまま話が進行するから。あの場面の真理子さんは非常に不自然で、ちっとも17歳っぽくないし、新米教師らしい苦労も何もしないし、ただ単に教育テレビ風の教師でしかないからだ。

 んだが、北村薫は、この高校シーンをこそ、『スキップ』という物語で書きたかったのでは、という声を聞いた(オフラインで)。この高校シーンは独立した物語として、非常に楽しめたという声も聞いた(某MLで)。『スキップ』を評価する人たちは、この高校シーンを非常に買っているような印象がある。ここの違いではないだろうか。

 以下は、全くの推測です。この高校シーンが間に入ることで、読者の意識は、桜木真理子のとても17歳とは思えない、あまりに見事な教師っぷりに(不自然さを感じなければ)、桜木真理子=17歳という初期の設定から、桜木真理子=教師にシフトさせられてしまうのではないか。……、ちがうかなあ……。自信ないんですが……。もしそうだったとして、北村薫が自覚的にしているのかどうかということも、自信がない。自覚的にしているとしたら、反則だと思うし。

 私的には、この高校シーンは非常にイヤです……。なんか、本筋云々は別にしても、あの世界そのものが、教師の理想的高校生しか存在しないような気がして(旦那はあんな目にあっているのに、どうして真理子さんは大丈夫なんだろう???)、受け入れがたい。拒絶せずにはいられない。だから、シフトできなかった。本筋はあくまで「17歳のスキップ」「時と人」ではないか、と。

 むー、霧発生源はいずこ……。

兄弟、耳が痛い

 有里さんに言われてしまった……。ポジティブなものもおもしろいと言われるように頑張るです。というか、ネガティブなものがオモシロイと言われるのは、痛痛痛……。

 つーか、欠点を指摘するのは楽なんですよ、はっきり言って。でも、良い点を指摘して、それがいかに良いかを伝えることは、非常に難しい。当り前なんですがね……。やっぱりそれを目指したいっす。そうすれば、自ずと読んだ本が重なるのでは<大言壮語。

去年の俺様

Feb.17,2000 (Thu)

ラジオドラマ 寮美千子『小惑星美術館』第4回

 オーマイガーッ!! こんな話だったっけ〜!? という展開。んだが、終わるまで原作本は手に取らないことに決めているので、我慢我慢。いや、真面目にこれはこれで面白いんですが。

 「ぼくは記憶喪失なんかじゃないって言っているじゃないか!!」というユーリの叫びが、いつまでも『スキップ』を考えてゴチャゴチャしている頭には清々しかったり。どこに行っても、君は君。そういう強さが真理子さんにも少しくらいあれば……。

 ただ、雰囲気的に、来週の『エデン2185』とカブりませんかね? 宇宙船。

オセロ(北村薫関係)

 ああ、ついに有里さんまで(^^;。

 

「悪」を一部の登場人物(特に女性)に押し付けて、主人公や探偵役が「善」の側にとどまっている点をいっているのなら、全く同感。
 同感。なんか、書割的(顔に「善」とか「悪」とか書いていそう)というか、本当に「うすっぺら」という意味で、「フラット」だと思います。二次元的で、厚味がない? ただ、私には馴染めない感覚なんだよなあ(うーんうーん)。

 『盤上の敵』のどこがそんなに良いのかがさっぱりわからん、と私が言っていたら、カワカミさんが言うことには、【ネタバレ>ずっと「白」だと思わせられていたものが、最後で反転して「黒」になるところにカタルシスがあるということだったんですが、私的には、あの「白」って全然「白」でもなかったってところがネック(^^;? 「絶対悪」だの、「黒」だのというのも、あの書き方はなんぞや? 彼等に人格を認めてなさげなのが、どうにも受け入れがたい。<ネタバレ】なんか、「白」と「黒」とかっちり分けられることが前提、なんだろうなあ。うーん。人間、そんなに単純なものではないと思う。いわゆる「悪」とされている感情も、人間にはなくてはならんものだと思う。嫉妬や独占欲が伴わない愛ってあるのか? 誰か特定の人に対する好意という感情自体、他人に関しての優劣とか評価とかがあってこそでしょう。……ちゃうんかな? ワタシってヨゴレ?(いや、それはそうだと思うけど) もうよくわからんよ……。

 ああ、風野先生までっ!? え、別にこっちにからんでいるわけではない?('-')

 やっぱりこういう現象を多重人格というのですね(;_;)。以前MLで、この時の真理子さんの心理状況を2重人格に置き換えると理解してもらい易いかと思います。と書いたら、一笑に付されたことがあった。さらにその後のオフでも、「二重人格説は笑いましたよ!」とか言われたし、ムカー!!>Oさん(笑)。ジョニィ高橋さんには通じていたみたいなので、こないだほっとしたところなのだ。「時と人」というテーマさえなければ、『スキップ』って二重人格小説だと思うし、そのテーマが活かされているとは思えない以上、そう割切ってしまった方が、まだ混乱が少なくてすむと思うんだけど。かといって、「二重人格」も活きていないが(;_;)。小説として、どこが幹なのか、さっぱりつかめんちー。

 夫のおぞましい台詞について、二重人格物でなら、結構見かけるシチュエーションのような気がするんだよな。例えば、昨日名前が出た、『イズァローン伝説』でも、主人公の片方の人格アルが、主人格であるティオキアが眠っている間に、勝手に助平オヤジっぽい豪商をベッドに誘って(恐らくは初めての?)セックスをしてしまう。豪商のベッドの中で我に帰ったティオキアは、その後自殺しようとするんだっけ(貸しっぱなしで手許にないので、自信がないなあ)。これだけなら別に、時代劇なんかでお姫様によくありそうなパターンだけれども、それ以前にティオキアは魔王によって徹底的にそれ以上の苦痛や辱めを受けているはずなんだよな。それは歯を食いしばって耐えていたティオキアなのに、なぜ、たかがセックスで、ってところがミソなんだけど。たかがではなかったのだ、というところが。まあ、これは、首をはねられるスプラッタよりも、爪の間に針をさされる拷問の方が痛そう、という読者心理(?)なのかも。身近な苦痛の方が分かりやすい?

 少なくとも、私には、ティオキアの反応には感情移入できても、真理子さんの無反応ぶりは理解できない。冒頭であれだけ「清純な女子高生」として書いておいて、あれはないっす。高校生であれば、いくら「清純」でも、夫と子供が存在するということが何を意味するのかは理解できるはずだし(30年前でも、だよね?)、「清純」であればこそ、その事実を見逃せる筈はないと思うんだがなあ。なんか、言っていることとやっていることが違う、というようなちぐはぐなキャラクターなんだよなあ、真理子さんって。行動に一貫性がないというか、常に物語の都合によって動かされているような。駒ってのは、動き方にルールがあってこそ言える比喩だと思うのだが、どういう行動原理があるんだか、さっぱり理解不能。何を考え、どう思っているのか全然わからんので、感情移入のしようがない。最初は混乱のあまり一時的な躁状態にあるのかと思ったくらいだけど、ずっとそのまんまだったので、驚いた(^^;。

 なんか、『盤上の敵』でも、『ターン』でも、【ネタバレ>セックスが「清純な」「処女」を傷つけるための伝家の宝刀のような扱いなのが気になる。正しいセックスは祝福されるべきものなのに、そういう所を書かないで、そっちばっかり書いているんでしょうか? 「私」には出てくる?<ネタバレ】うーん、うーん。

 とりあえず、今日図書館で『空飛ぶ馬』を予約してきたんで、読みますわよ>有里さん!! 芝田勝茂は、『きみに会いたい』と、『夜のこどもたち(改訂版)』は読んだんだけど、『ふるさとは、夏』『進化論』『ドーム郡ものがたり』『星の砦』とことごとく途中で挫折していたり(笑)。あの超アンバランスが、余裕の有るときには楽しめるんですが、余裕がないときはこっちまで引きずられて不安になってしまうのだった(;_;)。

去年の俺様

Feb.18,2000 (Fri)

ラジオドラマ 寮美千子『小惑星美術館』第5回

 あれ、こういう話だっけ??? こ、怖いよう(でも、ふつー、そういうこと子供には突然言わないと思うぞ(笑))。

 ということは忘れて。……いいなあ。多分、最初のクライマックス。金曜日だからね。上手い。

 自分の目でしっかりと見つめ、考え、そして問え。

 私がつくばに行った頃には既に、トマトの木はなくなっていた。ちょっと見たかったな。

本を読みたくなる書評

 雑誌『飛ぶ教室34―特集・長新太大研究』(1990)が、近所の古本屋で野ざらし100円だったので購入。当然目的は川島誠の連載「状況と批評」。この号は『那須正幹はミック・ジャガーだった?』。

 一応図書館で一通りはコピーしたんだけど、改めて読むと面白い。私は「ズッコケ」シリーズに限らず、多分那須正幹は読んだことがないんだけれども、『ズッコケ(秘)[まるひ]大作戦』、借りて読もうかなあ。残らずこの評でネタバレされているんだけどね、これはこれでいいのだ。だって、『飛ぶ教室』を読むのは子供じゃなくて、大人だから。でも、こういうのって、評の中で作品中の魅力的な部分がすべて抜き書きされているようで、実際に読んでみたら事前に知っている分魅力半減ってことになりそうで怖いんだけど、でも、川島誠だから大丈夫だろう。ああ、たまらなく読みたくなるよ、「ズッコケ」シリーズ。

 それはそうと、川島誠の評論集が出るという話は一体どこに行ったんだ(;_;)ノ。内容が内容だから、児童文学系出版社からは総スカンだったりとかしないだろうなあ(『今週の○と×』とか)。こういう評が世の中に読まれることなく消えていくのは余りに勿体無い。児童文学が256倍面白くなるってのに!

愛を乞う人(北村薫関係)

 今朝、ばたばたしてしまって、図書館に返却する予定の本を持ち忘れてしまった。通勤本(キース・ピータースン『裁きの街』)すらなく、案の定、貸出冊数制限一杯だったので、せっかく取り寄せてもらった『空飛ぶ馬』を借り損ねる。なんてこったい(;_;)。

 風野先生によると、

北村薫の小説は、方向性はまったく逆だけど、突然かわいい女の子が家におしかけてくるマンガと同じような、こんな女性がそばにいてくれたらいーなー、という願望充足ドラマなのです。ベルダンディに女性としてのリアリティがない、とかいう人はいないように、あれはあれでいいのです。だって、「私」も真理子さんも女神なんだから。

 とのこと。そうなんでしょうなあ……(;_;)。つーか、それを言ってはおしまいですがな〜。私が喚いているこの行為は、やおい小説に対して、男の人が文句を言うようなものなのでしょう。るるるー。でもあれが願望充足ドラマだとして、やっぱり畳と女房は新しい方がいいってことでしょっかー。……時と人……(i-i)。

 wimさんのフラットについて。別にキャラクターがうすっぺらでも、ドリームでもいいんですが、『スキップ』の場合気になるのは、キャラクターの言動、感情の動き、性格が、場面場面で非常に臨機応変(物語の都合に合わせて変わってしまう?)なため、連続性や一貫性が見つけられないということです。多分、感情の振幅の少なさが積み重ねられた結果だと思うのですが……。とにかく本当につかみ所がないので、混乱する。行間というのは、行と行が繋がっていれば生まれるものだと思うんですが、それが、捉えられない。んで、なんとか隙間を埋めようとして、「怖い考え」になってしまう……。

 ところで、ただしオレ的に北村薫の目的は人間を描くことではないと考えているので、人物描写が深かろうが浅かろうが気にしません。とのことですが、『スキップ』の目的は那辺に? それがよくわからないのでした。「時と人」というテーマがあるからには、そこだと思うんですが、むしろ「時と人」の重みを軽んじているようにしか見えないので、まさか、それ?とか。どんな小説であれ、幹がしっかりしていれば、枝葉に傷があろうとも、OKなんだけど、肝心の幹が見つからない……。駄目かも。

 小太郎さん(裏なのでリンクは駄目ですか? 引用は?(^^;)は、あの設定であの書き方、生理的に受け付けない人の反感を想定してわざと物語を書いているのでは、とか深読みしてしまったりして。とおっしゃる(;_;)。それ、無茶苦茶怖い……。まだ、人の心情とか、時の重みに鈍感だったという方が、(私にとって)救いがある。愛を、愛を!!(;_;)

ナビィはつづくよ

 なんと、今日で都内上映が終了した『ナビィの恋』が、銀座テアトル西友で4月1日〜4月28日再上映決定。すごすぎ。

去年の俺様

Feb.19,2000 (Sat)

ビューティフル・ドリーマー(北村薫関係)

 またもや風野先生がっ。「聖母願望」が『スキップ』や『ターン』や、また『盤上の敵』にあるということは、よくわかります。「処女信仰」? ただそれは、うーん、うーん。

 以下、自分語り。どうも、そういうのは、私にはとても不思議で気色悪いのだった。一番最初にそれを強烈に感じたのは、以前にも言ったけど、高校1年(2年かも)の時に読んだ灰谷健次郎『少女の器』。これに猛烈なあるシーンがある。どのくらい猛烈なのかというと、読んだ人には「あのシーン」で通じるくらい、物語中で際立って猛烈に猛烈なシーンなのだ。はい、「あのシーン」です。

 これを読んだときも、とにかく気色悪かった。灰谷健次郎は、小学校5年生のときに、『兎の眼』を読み、それから中学2年生にかけて、長篇は『我利馬の船出』まで、短篇もあらかた読んでいた。一時期ファンと言えるほどだったんだが、だんだん胡散臭さを感じて、『我利馬』以降は読まなくなって、久々の灰谷であった。が、その一瞬で、それまで読んできたものに対する印象すら、それこそオセロの駒をひっくり返すくらい鮮烈に、白から黒へとばたばたと変わってしまった。いや、もともと真っ白じゃなかったけど(^^;。

 具体的に「何」があったのかは読んでもらえばわかるのだが、要するに少女の処女性、清純さ、無垢を極限まで高めたいがために、その少女を屈辱と羞恥と汚物で汚すことも厭わない、極端な「処女信仰」、そのさらに先にある「陵辱願望」を見てしまったんですな。だいたい、『少女の器』というタイトルの意味は、何よ? 一体この人は「少女」を何だと思っているんだろう、と強烈な嫌悪感を抱いてしまった。少女は天使でも悪魔でもない、人間です。

 「聖母願望」とか、「処女信仰」というのは、私にとっては、不可思議で気色悪いものなんですが、男性には一般的なものなんでしょうか? むーん。って、以前某ダーMLでやったような気が(笑)。

 何が気色悪いといって、「聖母」や「処女」に処女性が要求されるその裏側に、「性」に対する忌避や嫌悪が透けて見えるからだ。生命の誕生は、何であれ祝福すべきことだろう。ならば、そのために当然行なわれた行為について、どうして否定することができる。別にそのことは汚いことでもないし、それを経験した女性が汚れてしまうわけではない。それを「汚い」と思うとしたら、汚れているのは、そう思ってしまうてめぇの価値観じゃねーのか? 第一、てめぇの中のその「欲望」はないのか? それともその存在をも否定する? ならばなぜ、「処女」を求める。

 これは、「悪意」や「嫉妬」や、〈汚い〉とされる感情についても同じ。

 『スキップ』では、性的な事柄や、悪意などに対して全く無関心(無知? 無恥?)で鈍感、そして『ターン』『盤上の敵』では、「性」や「悪意」がまさに傷つけるための武器としてのみ登場する。しかも、『ターン』では、主人公が男性とお付き合いした経験がないということも、ことさら強調されるような形で(確か年齢との絡みだっけ。ううむ、読み返さないと思い出せない)ばっちり書かれていて、猛烈なイヤ感に襲われたような覚えがある。それがどうした、一体。何がどうして、そのことがそんなに重要なんだ!?(これに関しては、MLで言っていた、村上春樹『ノルウェイの森』の方が顕著なんだが、さすがにおおっぴらに書くことは躊躇してしまうのだった(汗))。

 『スキップ』って、「聖母願望」や、汚れなき心を書き出すことによって、「性」や〈汚い感情〉を切り捨て、それと一緒に、切ってもきり離せない筈の、愛だとか恋だとか、親子とか、夫婦だとか、満たされた幸福な時間の喜びなんかが全て落ちてしまい、結果的に「人間的」なあらゆることがないがしろにされているような気がする。それら全ての大切なことよりも、「処女」の美しさ(「性」への嫌悪)は強調されるべきことなのか。自覚的だとしたら、むっちゃ気色悪い。この辺とか? 「時と人」はどこへ行ったんだ。切り捨てられたことは、「時と人」そのものだと思うんだが、ちゃうのかなー。

 で、たかはしさん「M78星雲問題」。リンク先で伏せられているので、伏せました(^^;。どうしただろうか、と言われると、普通は病院に連れて行きますでしょうなあ、と私なら答えますが、『スキップ』ワールドの住人だとどうなるんでしょうなあ。いやもうさっぱりわからんちんです。が、とりあえず、「記憶を失っている」という事実に対して、夫や娘が何らかのアクションを起こさない限り、「真理子さん」が何だろうと(謎)救われんと思うです。「真理子は真理子」だとすれば、それこそ、「記憶」=「時と人」に対する冒涜ではーーーー

 で、ヒラマド論って、一体(笑)。そりゃ気になりますとも!(笑) 良い読者か悪い読者かということについては、むー。「正しい読者」が、一体何なのかがわからんので(特に最近)、わからんです。そう言うところもふくめて、今度じっくり聞かせてください。まー、良くないと思うんだけど(断言しろよ>私)。語ってしまうのは、とにかく私にとってはこの上もなく気色悪いのに、良い良いと誉めそやす人が沢山いる。そのギャップがどこから生まれるのか、それが気になって夜も眠れない(嘘)からです。っていうか、ぢつは「聖母願望」や「処女信仰」が一般的で、それは時よりも人よりも記憶よりも愛よりも大切なことなのだろーかとか。いやもう気色悪いです。って、躍らされているだけなんでしょうけどね……。意図的なのか、そうなのか?(;_;)

 まあ、単にドリーマーって人気があるのかも。世の中世知辛いって言うし。でも、別に世の中って汚い物ではなくて、(以下ループ)。

 要するに読まなきゃそれで済む話なんですが。関係ないんだし。

『空飛ぶ馬』

 とか言いながら、結局、近所の図書館で手にとって、1時間ほど座って読んでみた。「織部の霊」。……悪くないじゃん。文学談義とか蘊蓄が太くて立派な幹になっている(謎はその一部)。上方落語と江戸落語(……という呼称でいいのかな?)では、寄席の雰囲気がかなり違いそうだなあ、ということを考えてしまう。以前、「私」シリーズに関しても、「こんな女子大生いねーよ」と言うのを聞いたが、とりあえず、今のところはキャラクターについては、それほど引っ掛からない。短篇だし、やっぱり愛だの恋だのが絡まない、浅い付き合いの人間関係のお話だから。好きな種類の話かと言われれば、全然好みじゃないんだが。

 「砂糖合戦」を読んでいたら、異様に寒くなってきたので、物凄いらしい『水に眠る』を借りて帰る。これも物凄いらしい『夜の蝉』がなかったので、順番を飛ばして他を読む気にならなかったのだ。一緒に『それいけズッコケ三人組』と、気になっていたジェリー・スピネッリ『ひねり屋』も借りたので、読むかどうかはわからんけどね〜。『裁きの街』も途中だし(;_;)。

 まあ、明日は雪が積もるらしいので、ゆっくり読書には最適? そういえば、『ターン』を読んだ日も、雪で閉じ込められていたような記憶があるぞ(1998年の成人式って大雪だったよな。ちなみに『スキップ』『盤上の敵』は、新幹線という密室の中で読んだ)。豚タンで作ったクリームシチューもたっぷりあるし。

沖縄の小妖精

 森太郎さんにも『ナビィの恋』は好評だったようだ。ところで、ナヴィとエロジジィが十分現地人らしかった(エロジジィは本物の現地人だったらしい)とのこと、ナビィ役の平良"沖縄のアイドル女優"とみは沖縄の人ですが、エロジジィこと恵達役の登川"沖縄の小妖精"誠仁は尼崎出身です。元々両親が沖縄の人で、戻ってきたということなのかどうかはわかりませんが。まー、奈々子役は確かに沖縄の人っぽくなかったんですが、演技が良かったんで構わないっす(^-^)。

去年の俺様

Feb.20,2000 (Sun)

それを言っちゃあおしまいよ(;_;)(北村薫関係)

 またまた、風野先生。はい、そのとおりなのでございます。で、『スキップ』感想のファイルには続きがありまして、それが「『スキップ』ってやおいだったんだ」という内容なのですが、消してしまったのだった。

 ちなみに、そういう話が全て駄目というわけでは決してない(と思う)。『スキップ』の場合は、そういった「処女信仰」とか、「聖母願望」と言ったものを表現したいがために、夫婦や親子の愛や、時や人や記憶の大切さや、そういったものを全て切り捨ててしまっているようなところが、引っ掛かるのだ。「処女信仰」や「聖母願望」などを書いたものであっても、愛だとかを書いたものはあるでしょう。

 実際、「処女信仰」自体は、だいすけさんが書いたとおり、「唯一無二の愛」に対するあこがれを、わかりやすく具象化したものなんだろう。当然、そのあこがれを否定する気はさらさらない。それが「処女」という形だけを尊重したりするように、歪んでしまうのが気色悪いのであって(^^;。重要なのは愛であって、肉体の使用/未使用の差ではないということです。ちゃうかなー。をれの方がドリーマー?

 今日はちはらさんと偶然会って、パスタをいただきながら北村薫とか新井素子の話とか(^^;。楽しゅうございました。あまり楽しかったので、インターネットで選ぶ日本ミステリー大賞 2000に投票を忘れたり〜。零時過ぎてから出したけど、受理されるかな?(^^;

 『空飛ぶ馬』は「砂糖合戦」で、ちょっと腰が退け気味〜。駄目かも。

 青木さんの、だんだん、自らをさらけ出し状態で、その態度は『もてない男』論の時の総統に似ている(^^;)。というのは、うぎゃー、いや〜(笑)。昨日のが完全に地雷でしたわね、をほほほほほ。一応嫁入りまえなので。スキップオフについては、ちはらさんもあれば参加するとか言っていたような気がするが、うーん(笑)。

去年の俺様
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