Sponsored Link

ざぼんの皮 2000年 01月


Generated by nDiary version 0.9.4

Jan.21,2000 (Fri)

HARMONIA

 ついに、寮美千子さんのページ・HARMONIAが開設されました!!(^0^)

 んでもって、寮美千子ファンページにも八方美人な書評ページ『ノスタルギガンテス』書評を追加。

 ところで、↑を読んでいて、なんとなくアニメ映画『ユニコ――魔法の島へ』の魔女・ククルック(映画館で見たんだが、ものすごーーーーーーーく怖かった。あの時は)を思い出してしまったり。

去年の俺様

Jan.24,2000 (Mon)

更新

 13月の扉に、川島誠『しろいくまとくすのき』と、寮美千子『星兎』『ラジオスターレストラン』『小惑星美術館』の感想を発見したので、それぞれ追加。

メモ

 Kちゃん宛てに、ヴォネガット『プレイヤー・ピアノ』『スローターハウス5』『猫のゆりかご』、殊能将之『ハサミ男』を発送。届いていないという第二便(ビジョルド4冊セット(;_;))の事故調査用紙をもらう。

 キース・ピータースンは、そろそろ『幻の終わり』を読了する。その後は、ちょっと、木村哲人『〈キムラ式〉音の作り方』に寄り道する予定。ところで、1/17に開いたらしい、ニフティfsuiriの『真夜中の死線』ネタバレ会議室では、閑古鳥が鳴いている。

 オーディオドラマ(ラジオドラマ)の世界によると、2/14〜2/25寮美千子『小惑星美術館』の後は、2/28〜3/10竹宮恵子『エデン2185』とのこと。こういうおセンチSFは実はツボだったりするので、喜ぶ。週刊FSTAGEにゴドリー役の役者さんによる日記に、収録の様子があったり。本気でMDデッキの買い直しを考えた(が、金がない……)。その前に『小惑星』の『青春アドベンチャー通信特別号』を申し込まないと。

去年の俺様

Jan.26,2000 (Wed)

更新情報

 更新情報の書き方に問題があったようなので、いじってみたり。これで分かり易くなりましたでしょうか……(i-i)。

 寮美千子ファンページ「Coelacanth Flight 909」へのリンクを追加。むむむむむ。素敵だ。

キース・ピータースン『幻の終わり』

 ここの所ネットにいないのに、読書が進んでいないのは、ずーっとNHKの震災特集を見ていたからですね(;_;)。というわけで、やっと昨日キース・ピータースン『幻の終わり』読了。『暗闇の終わり』よりも好きかも。渋くて安心して読めるのがいい。

 『〈キムラ式〉音の作り方』も読んでいて幸せになれるのがいい。

 というわけで、また沈みます〜。ここん所の寒さでだいぶ体調は戻りましたが、こうなると春先が恐怖だ(i-i)。どうも「暖かくなる」のに弱いらしいので。

去年の俺様

Jan.27,2000 (Thu)

ピュア(北村薫関係)

 shakaさんの日記(1/20)にある「ピュア」というのを読んで。うーん、感性とか、人間の心の捉え方の違い(本当に根源的な)だと思った。

 私にとっての「ピュア」とは何なのかということを考えてみる。悪意や嫉妬、という感情は、善意や愛と等しく、人間が生まれた時から持っている美しい「感情」のあらわれであって、後天的に染まるものではないと思う。幼稚園児にだって、悪意はあるし、嫉妬もあるし、余計な計算がない分、むしろ大人のそれよりも鋭利かもしれない。だからといって、幼稚園児がピュアではないとは思わない。悪意も嫉妬も、恐怖も哀しみも、殺意も奢りも、あざけりも、ひがみも、善意も愛も、喜びも慈しみも、安らぎも幸せも、それらがあって、一つの心なのだから。

 確かに悪意は忌避すべきものだろう。だが、愛と嫉妬は裏表、善意と奢りは裏表、恐怖と安らぎは裏表、なのだ(そんなに単純じゃなくて、もっともっと複雑だが)。裏があって表のない面が3次元に存在しないのと同じく、表があって裏がないことはありえない。憎しみも妄執も、ベクトルが違うだけで、愛しさや美しさと「同じ」心の動きなのだ。いわゆる暗黒面だけを忌避することはできない。それは、食べ物を礼賛し、排泄物を忌避するに等しい行為ではないだろうか。

 そういうことを前提において、「ピュア」とは何なのか。私にとって「ピュア」とは、そういった、悪意も善意も全てを含んだ、巨きな人間の心(他人のものでも、自分のものでも)を、「ありのままに」(悪意=悪い、善意=良いという価値付けなしに(ここがキモ!重要!!))見通し、受け止められる強さと柔らかさのある状態……と言えばいいのかな(むー、練り不足)。自らも己の心から湧き出す悪意をそれと認め、それによってもたらされる心の痛みを抱えたことのある人にしか、そういう弾力性は望めないと思う。それらを知らなければ、忌避する以上のことはできないと思うから。

 要するに、「あるがまま」ってのが私のピュアかも。『ノスタルギガンテス』のカイが、殺意を抱いてもなお痛いほどピュアなのは、外の価値基準に左右されない心を持っているからだと思う。

欠落と行間(本の読み方)

 カワカミさんの日記読み手のスキル(000126)について、私が摩訶不思議と思ったのは(以下、紺色は引用。強調はママ)、「 たしかに世界創造が巧くない(と思われる)作家もいる。でも手に取ったからには、楽しむために読んでるはず。面白がれるポイントを見つけましょ。」という個所。

 うーん、それって、窮屈な読書だなあ、という気がするのだ。荒が目に付く作品でも、そこには目を瞑り、無理矢理楽しい個所を見つけて、無理矢理楽しむというのは(^^;。それが、自然にできる人ならいい。正直言って、本当に羨ましいと思う。でも、そういう人って多数派なのか? そうでない人(私)が、無理矢理そんなことをして、本当に楽しめたと言えるだろうか?

 例えば、いくら読み辛い文章でも、それを上回る迫力があれば、楽しめるだろう。要はバランスの問題だと思う。読者は字面を追って読めばいいと私は思っている。紙に書かれた文字に心を埋め、文章に導かれながら、作品世界を堪能できるのが、私にとっては良い小説。完全に任せてしまえるものが。そのために読者からも作品にアプローチすることは必要だし、誰もが無意識にしろ、意識的にしろやっていることに違いない。それでも、それが大変なことに思えるような小説はどうかと思うんだが。それは要するに、作品と読者の間の何らかのインターフェイスが駄目ってことではないかな。

 そこで、「読むのがとても大変な小説だ」と思ったとしたら、「読むのがとても大変な小説だ」という感想で良いと思う。「面白くない小説だ」と思えば、そのまま「面白くない小説だ」と思えばいい。素直に、正直に、感じればいい。なのに、無理に面白味を探そうとするのは、一体何のための作業なのだろう? 時間を割いて読んだのだから、ってことなのかな? 損した気分になりたくないからかな? 悔しいからかな(^^;? もったいないじゃんって。少なくとも、面白くなかった作品をWebで面白かったと歪めるて書くのは、不誠実だと思うので、私はやりません。「論じる」ってがよくわからないけれども、感想としては何か違うのでは〜。

 でも、あの日記のキモはそこではなくて(流れちゃうので、掲示板から要旨を引用)、

  • 書かれてないところを指して、だからダメっていってもしょうがない
  • 作者の意図を探るのに夢中になって、楽しめないのは損である
  • 隙間は楽しみどころである(読者が自由に構築できる)
 日記では「小説は文字だけで構成された世界だから、隙間があるのは当たり前。(中略)書かれていない部分に、なんらかの意味を見出すのがスキルってもんでしょ。ただ「書かれていない」からダメって判断したんじゃ、面白くもなんともない…芸もない。隙間は自分で埋めるべき。」というところであったということなのだろう。

 ふむ。確かに行間を読むことは楽しいと思うし、作者の意図を探るのに夢中にならざるをえないような小説は駄目小説だと思うので、やらないにこしたことはない。でも、最初のやつは、どうかなあ。

 まず、行間と欠落は別物だと思う。「書かれていない部分」がそのどちらなのかは、考えなければわからないし、考えた結果、それが欠落であると感じた場合、その行為は「楽しむ」方向に向かわないこともある。その時は、気づかなかったことにする、とか(^^;? うむー、片手落ちだ。

 ええい、やあ、もういいから、北村薫『スキップ』を例にとって説明しよう。私が一番この小説で引っ掛かった部分は以下の部分で、これに比べれば夫の言葉に対する真理子さんのおぞましい反応も、一面的なキャラクターも些事であるかもしれない。

 というわけで、これより先の個所には北村薫『スキップ』のネタバレを多く含みますので、読みたくない場合はジャンプして下さい。

<!-- ネタバレ開始-->

 『スキップ』では、17歳の女子高生・真理子さんの心が、25年後の自分、妻であり母であり教師である「桜木真理子」の肉体に「スキップ」してしまう物語である。「あのお方」と呼ばれる、元々肉体に宿っていた筈の心は、完全に失われた状態である。

 真理子さんは、42歳に老いた自分、妻である自分、母である自分を、たいした葛藤も起きず、拒絶しない。夫も娘も「あのお方」の消失にちょっとおセンチになるくらいで、「あのお方」を取り戻そうと取り乱しもせずに、真理子さんを受け入れてしまう。その彼女に夫が、「あのお方」の職場で「あのお方」として教師を務めてみればどうかと提案する。

 読者的には、んな無茶な、と思うわけである。何しろ「あのお方」の受け持ちは、真理子さんよりも年上の高校3年生、大切な大学受験を控えたクラスなのだ。25年間の知識も経験もない、大学で教職を取ったわけでもない、ただの高校2年生の真理子さんに、そんな仕事が務まる筈がない。第一、「あのお方」の記憶を真理子さんは持ち合わせていないのだから、いくら17歳までのベースが同じとは言っても、同僚や生徒に「別人」であると気付かれるに決まっている。どうする真理子さん!?……というハラハラドキドキの展開、なんだと思われるのだが。

 が、そうはならないのだった。真理子さんは難なく授業をこなしてしまうのだ。しかも老練に。おまけに誰も「桜木真理子」の心が入れ替わっているということに気付かない。ちょっと物忘れかな(物の置き場がわからんとか)というくらいの違和感で、その外の変化は書かれてもほんの少しだけ、「若々しい」などと好意的に受け止められるくらいなのだ。「あのお方」と真理子さんの差異については触れられることなく、学校生活は続く。

 これは、「隙間」であると読者は思うわけだ。予想・期待を裏切られたのだから。なぜ、高校2年生ごときに教師が務まるのか。そして何よりも、誰も失われてしまったものに気付かないのはなぜなのか。それは「書かれなかった」のだろうか。書かれていれば、もし書かれていれば、おそらく真理子さんが一歩足を進めるごとに、失われてしまった「あのお方」の存在、「あのお方」が過ごした25年間の時間というものが浮き彫りにされて、それは切ないお話になったような気がする。では、なぜ書かれなかったのか。その欠落がストーリーの一部であると解釈してみる。

  1. 17歳の真理子さんと、「あのお方」はほとんど行動、性格、スキル、考え方等に差が見られない。
  2. 誰も「あのお方」から真理子さんへの変化を見ぬけるほど、「あのお方」を知りはしない。
  3. 思っていても、わざわざ言えるだけの人が周りにいない。
  4. 単純に、真理子さんの方が「あのお方」よりも優れている。
 いずれにしろ、「あのお方」にとっては録でもないものばかりだが。物凄い寒々しさを感じた。これは、夫や娘の反応にも同じ。

 「あのお方」が積み重ねた25年間って、それほどまでに無意味だったのだろうか。たかが17歳の小娘が代用になる程度の教師、妻、母? 25年間、何の変化も、成長もしなかったの?

 周囲の人々にとっては、失われた25年間に共有した思い出だけが、「あのお方」が「あのお方」である証しである筈だ(特に、夫、娘)。それが「ない」のだ。共に紡いでき思い出の糸が、切れてしまったのだ。積み上げてきた経験も、喜びも、哀しみも、何もかも。それでも、そこにいる真理子さんは、登場人物たちにとって「あのお方」と同一なのか? 「あのお方」はその42年間の経験をつみかさねて「あのお方」になったのであって、「あのお方」と全く同じ42年間を過ごした人間以外の誰にも代用ができない、この世で唯一一人の人間、一個の大切な人格ではないのか。代用があればそれでいいというものなのか。それは真理子さんにも言えることだが。

 もし、「あのお方」を本当に想っていたのなら、その喪失に気付くはずだ。いや気付いてくれ。「違う、あなたは別人だ」と言ってやれ。そして「お願いだから、元に戻って」と祈ってくれ。「あのお方」のために。自分と「あのお方」が共有した25年間のために。そして、真理子さんのために。

 この隙間から得られた考察は、「桜木真理子」は誰にも愛されていなかった(し、憎まれてもいなかった)んだろうなあ……という、やりきれなさ、である。存在の耐えられない軽さ、か(だから記憶を喪失したのか?(;_;))。

<!-- ネタバレ終了-->

 で、考察の結果、私にとっては、この隙間は『スキップ』という小説にとっては致命的な欠落であると思いました。または、本当に寒い話なのか。こんなに寒い話は、私は嫌じゃ(;_;)。「時と人」というテーマを背負っている以上、「ファンタジーだから」と言って、見逃すべき部分だとも思えない。

 ということで、隙間を自分で埋めた結果、ダメってことになったんですが、どうでしょ?(^^;。

修正

 風呂入っている間に気になる部分があったので、ちょっと修正しました(0:48)。あと、リンクも1個所修正(--;。すみません。寝ます。

去年の俺様

Jan.28,2000 (Fri)

ぴゅあ(北村薫関係)

 昨日の続き。

 私にとってのピュアとは、価値に左右されないしっかりした芯の強さ、ですな。これだったらカイにもうさぎにも川島誠『悲しみの池、喜びの波』にも当てはまるぞ。そのためには弾力ある心が必要なはず……と展開すべきでした。逆から行っちゃったのは、結論が自分で見えていなかったからなんですが(書きながら考えているので)、青木さんが。おおう。

 『スキップ』『ターン』『盤上の敵』を読んでみて、北村薫って潔癖な人なんじゃなかろうか。だからああいう主人公、ああいう敵役になっちゃうのかも、とか。

 オレ、ケッペキはコワイんで、ニガテです(^^;。容赦なさそうで。

 ちなみに『盤上の敵』について、一番疑問なのは、ミステリーとして良いのか、あれで?ってことなんですがーーー(^^;>shakaさん。でももう記憶が曖昧だわ。

楽しい読書(本の読み方)

 またまた昨日の続き。

 カワカミさんの日記の摩訶不思議(000127)によると……、ハイ、確かに「楽しむ」の定義が全然違いましたm(__)m。すんません。

 私の「楽しむ」の定義はその作品世界堪能するということであります。カワカミさんが日記で言っている「楽しむ」は、たとえ作品世界を堪能できなかったとしても(第一段階としよう)、作品ブレインストーミングするようなことができれば(第二段階)、それはそれで「楽しむ」ことになるということでよろしいしょうか。

 「楽しむ」の定義が違うということには納得いたしました。

 私の日記の(橙は私の日記からの引用)

「面白くなかった作品をWebで面白かったと歪めるて書くのは、不誠実だと思うので、私はやりません。」
ええ…ぼくもやりません(誰がやるのでしょう?)。 これはちょっと失礼ではないかと思いました……。
 についてですが、これも「楽しむ」の定義の違いから来るものですね。「楽しむ」を「面白いと感じる」と解釈していたがために、あの日記が、面白くなかった作品を、もう一度副次的に面白味を見つけようと言っている解釈してしまったせいです。そういう人もいるのか?と。つーか、自分が面白いとWebに上げていた本を、万が一買って読んだ人がいたとして、その人に面白くないじゃないかと言われたとしたら。自分が本当に面白いと思っていた本に対してであれば、私は面白かったんだ、と言えばいいだけの話だけど、実は面白くなかった場合はどうにも釈明できない。それは不誠実だと思う。

 ……本読みの人たちは多分それぞれの「楽しみ方」を持っていて、それで「面白い」とか「面白くない」とか言っていると思うので、それでいいのでは〜、と私などは思ってしまうんですが、どないでしょ。「アレが足りない」「コレが描かれていない」で切り捨てるのも、一つの読み方でありましょう。みのうらさんのような楽しみ方もあれば、市川さん(1/28)のような楽しみ方もあって、それぞれの基準で「面白い」とか「面白くない」と言っているわけで、その基準が人それぞれだからこそ、私のようなド素人の愚考であっても、公開したり、見てまわったりすることに意義があるわけで(違った視点、というのもそうだし)、それでいいのでは。視点を変えることによって「楽しみ方」を見つけようとするか否かも人それぞれでは。

 中途半端ですが、ここまで。続きは明日(ここにはあげんかもしれんが)。

食べ物の話

 日新「ラ王・キムチやきそば」が最近のヒットである。

 先週末からじゃがいものスープが飲みたくて、近所のスーパーを探したのだが見つからない。冷たい奴が流行ったから暖かい奴もなくなったのかな〜(;_;)と思いながら料理の本を見たら、作るにはミキサーが必要らしい。うちにはミキサーがないからと諦めて、それでも缶詰売り場で探していたら、乾燥マッシュポテトの素を見つけた。裏ごししたジャガイモを乾燥させた粉らしいんだが、……これでできないかな?('-';。無理?

 圧力鍋の本を図書館で借りたら、昭和56年初版だった。古すぎ(;_;)。いいけどさ。

『平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝されて明寺伸彦博士,並びに,』

 が、縦書きになってしまったそうである>たかはしさんの日記より。って、はい、私は読みにくいと思いました(^^;。でも、変わっていて面白くて良かったなあ(でも内容は既に記憶なし)。このタイトル?も(本当はタイトルはなくて、「平成3年……」というのは小説の冒頭)、どっちも表紙という装丁も。……勿体無い。見てみよう(メモ)。

去年の俺様

Jan.29,2000 (Sat)

本の読み方(解決編)

 は、オフラインで行なわれたのだった。やっぱり顔つき合わせて話すのが一番いいっすよ。すぐ質問できるし(笑)。ってことで、私的には疑問解消、カワカミさんの言いたいことも分かって、超すっきりっす。めでたしめでたし。

 っつーか、飯食ったところにマフラー忘れたんで、明日取りに行かなきゃいけないんです……。うううううう、ごめんなさい〜〜(;_;)。かなり落胆。

 ……というだけではあんまりだ、ということで、一言。読んだ本が面白くなかった時の損した感覚について、私は図書館で借りて済ますために、金銭的損得感がないのではとカワカミさんから指摘される。……指摘されて初めて気付いた(笑)。そう、私にはそんなものがない。27日の「もったいない」と思うことについての疑問「時間を割いて読んだのだから、ってことなのかな? 損した気分になりたくないからかな? 悔しいからかな(^^;?」って部分には、完全にそのことは抜けておりました。

 確かに本屋さんで「この本面白そうだけど、どうかなあ、面白くないかもしれないなあ、自分の今の懐具合は……、うーん、どうしようかなあ」とか迷って買った末に面白くなかったりするのは癪かも。いや、癪だ。

 実は中学3年生の時に、当時の自分としては結構高額な本(人気があった。評判も良かった)を迷いに迷って買った挙げ句、「こんなん売り物としていいのか!?」と余りのつまらなさに落胆し、本気で「昨日かった本、家でダブっていたんでお金返してください〜」と書店に行こうかと思ったくらい……という経験をしてから、本を買うことが極端に怖くなったのだ。買って読むと、面白くなかったらどうしようってことがストレスになっちゃうくらい。幸い高校からは図書館が結構気軽に利用できる環境になったし、友達に良い本読みさんが沢山いたので、借りることに不自由しなくなり、金を使わない読書が自分の中で定着してしまった。

 要するに、恐らく、私は本屋で本を買うことが下手なのだと思う。でも、川島誠は、高校3年生の夏休み、予備校帰りの旭屋書店で、いきなりハードカバーで自腹で大当たりだったんだけどね(^^;。運命?

朗報……?

 東雅夫さん日記(1/25)に、突然私とニムさんの名が。ろろろろろ、朗報って何だ〜!? 寮さん関連? それは川島誠『800』初刷りから7年目に2刷りってのと同じくらい嬉しいものなのでショッカー!? 色々想像しちゃうぞ。気になって夜も眠れません<寝ろよ。

去年の俺様

Jan.30,2000 (Sun)

更新

 木村哲人『〈キムラ式〉音の作り方』。発明、発見、創意工夫の本って、読むと非常に幸せな気分になるよなあ('-')。

似すぎ。

 マフラーは無事回収。『ナビィの恋』が新宿でやっていればついでに見たのだが、とんぼ返り。ところで、邦画ファンサイトシネまんの『ナビィ』評セクハラソング『モンデヨー』を歌う誠仁は似すぎ。うがー、やっぱり渋谷で見りゃ良かったよ(;_;)。

帯でネタバレ

 ってのはどうかと思うぞ、池上永一『復活、へび女』。幸い図書館の本には帯が付いていなかったから良かったようなものの(これも利点の一つ(嘘))、思いっきりネタバラシやん(;_;)。まあ、この作品の面白味の核が、ここだけではないにしても、だ。これはねーんじゃねーかあああ。引用するならもっと別なところを選べよ。「おしえておじいさん」とか。

 というわけで、帯(裏)は見ないように>これから読む人。

みすこん

 はもう締切りですか!?<遅すぎ?(^^; す、スゴイ、凄すぎる……(大汗)。

 まあ、MDデッキ買うので金ないもんな……。XXの旅費とか(ぼそ)。

自粛ブーム

 の影響が、Junさん@白炭屋にまで……。復活をお待ちしております……。って、自粛宣言したんなら、大人しく自粛しようね、健康のために>私。

去年の俺様
このページの先頭へ