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ざぼんの皮 1999年 05月


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May.11,1999 (Tue)

世界の見方(寮美千子『ノスタルギガンテス』)

 昨日の続きで、『ノスタルギガンテス』のはなし。

ニムさんのうちの掲示板での書き込みNo.7 (1999/05/10 01:04) title:なんのことやら

読んでいて、自分は「世界のまちがった(あるいは正しくない)見方」(というのかなあ)をしているという認識を抱いてしまうのです。
認識を抱くというか、意識のどこかにあったことを再認識させられたというか。

  昨日の日記で私が書いたのも、ある意味で、そういうことです。ガラス玉が宝石ではないと気付き、それによって落胆するということ―、かつてはガラス玉も宝石も「奇麗なもの」でしかなく、自分の目に映る輝きのみをもって愛でていた筈なのです。ガラス玉の方が色がよければ、そちらの方が価値が高いはずだし、形が汚ければ宝石も価値がない。自分が美しいと思えるかということのみによって、価値付けられ、その両方が等価な「宝物」であると認識できた。が、そこに宝石の「金銭的価値」であるとか「希少性」であるとか、そういう自分が見た目以外の認識が入ってきて、初めて「ガラス玉は所詮ガラス玉であって、宝石には劣るものである」という視点が生まれ、「ガラス玉」は「宝物」としての存在価値を失ってしまう。そういうことではないでしょうか。

 ただ、人が社会で生きていくには、社会の共通の価値観を学ばなければならないわけで、「ガラス玉」と「宝石」とを金銭的な価値基準で計ることが「まちがっている見方である」とは言えない。「ガラス玉」と「宝石」とを同価値であるとして見る視点は、失うべくして失ったものだと思うのです。そこに、この『ノスタルギガンテス』の物語の悲しみがある。

  そこで昨日の日記で、私が書いた

そのガラス玉を再び宝石にするべく磨きあげることは、この物語の望むところじゃない。

 ということになるわけですよ。もはや私たちはガラス玉と宝石を等価に見る視点を無くしてしまったのだから、今更ガラス玉を宝石に見せかけようと磨き上げることは非常に滑稽なことでしかない。ガラス玉の輝きは、かつてと比べて衰えたわけではないのだから。衰えたと思わせているのは、私たち自身の心であって、取り戻すべきは、かつて確かに存在した無垢なまなざしの方であるべきなんだけれども、それは不可能であろうと。

u-kiさんのうちの掲示板での書き込みNo.8 (1999/05/12 00:19) title:寂寥感

まぁ、年中「なにか満たされなくて寂しい」とか「何か失ってしまったようで切ない」とか感じる必要はないけど、ふとした瞬間にそーゆー気持ちになることが多いです。そーゆー気分を思い出させてくれる作品というのに惹かれますね。

 というのは、全く同感です。

 で、同じく

 じゃあなぜ児童書? ということについては何か見解があるのでしょうか??

 については、恐らく朗読会で寮美千子さんから何らかの見解があると思いますが、そりゃまあ、出版社のせいでしょう(^^;。というか、出版社の名前のせいというべきか。パロル舎は純粋に児童書の専門出版社なんですよね。TRCで検索したら、昔は『吉本隆明論』とか出していたようですが、基本的に児童書しか出さないところと思われてしまっている。あるいは、そのように出した方がいいという戦略もあったのかもしれない(BOOK1stなんかでは、パロル舎の新刊は必ず1点は児童書コーナーに並ぶらしい、とかそういうこともあるし)。

 ですが、『ノスタルギガンテス』は明らかに児童書という作り方はなされていないんですよ。一番分かりやすいのがルビですが、ありましたっけ?(櫂の名にはあったような気がする) 今手許でぱらぱらとめくってみたところ見当たらないんですが、"溯る""蝸牛""手摺""嘴""剥ぐ""蹲る"等、全てルビなしです。ですから、『ノスタルギガンテス』は子供向けの読物ではないんですよ。作り手側は、そう思って作っていない。大人か、さもなければ背伸びしたい子供……、くらいでしょうか。でも、パロル舎という児童書出版社の名と、寮美千子という児童文学作家の名が、あたかもこの本を「児童書」であるように見せてしまっている。

#同様の現象が同じくパロル舎から出ている天沼春樹(ペリー・ローダンの新しい翻訳者の1人)の猫殺しモノ『水に棲む猫』で起こっています。子供が猫を川に投げ入れて殺しまくる話ですが、しかもこれはなんと1997年度日本児童文芸家協会賞を受けている。でも著者自身が「但し児童文学ではない」と声高に言っている。
##次作『猫町∞』が、いきなり濡れ場で始まるのも、ここらへんのことがあったからか?(^^;と思ってみたり。『水に棲む猫』も濡れ場あったんだけどね。

きっと私が子供のころ読んでもはまったと思いますけどねぇ、きっと。

 私もそう思います(笑)。でも、多分違う嵌まりかたをしていたと思います。

 つまり、やっぱりこれは、私が23の時に読んだ『ノスタルギガンテス』の解釈なんだと思います。

去年の俺様

May.12,1999 (Wed)

隣町の5丁目

 このサイトがすごい!ReadMe!おすすめサイトのMLで、4(5段階評価)をいただきましたm(__)m。やんややんや。

時間が琥珀に閉じ込めらて(寮美千子『ノスタルギガンテス』)

 まだまだつづくよ、寮美千子『ノスタルギガンテス』のはなし。

 かなり「私のため!」モードで読んでいることが、明確になってきました>私。
#つーか、そもそもこの本を紹介されたときのMLのやり取りからしてこうだったしねえ?>Hさん。相模大野に来てくださいね('▽')。

 ジョニイ高橋さん(高橋まきさん、の方が良っすか?)による寮美千子「ノスタルギガンテス」感想・続きへのお返事。

 たとえば冒頭、「きみ」で呼びかける文体で始まるのに、最後には そんな「きみ」がどこかに行ってしまっている(少なくとも語り手の 意識にはなさそうになってしまっている)ところ、とか。 そういうところに、なんとなく落ち着かないものを感じたので。

 おう、なるほど。言われてみると、確かにこれは最後まで語り掛けが閉じられていないような気がしないでもないですね。でも、私は自分のページでもここ(冒頭)をまず引用したように、この「きみ」という語り掛けにぐっときました。引用した冒頭部分は、ほぼ1ページにわたってカイが作り出した「メカザウルス」の美しさについて、カイが「きみ」に説明しようと試みているのですが、どうしてもうまくカイ自身が説明できないというもどかしさが伝わってきて良いと思ったです。この「どうしたらわかってもらえるだろう」という感覚が、以降の展開にも大きく関わったと思えます。

 この冒頭を受けて物語は、私が自分のページでも書いたように、

 自分の思い付きをとっても気に入った時のワクワク、それを他人と共有できないもどかしさ、口にした途端それは輝きを失ってしまうということは分かっているから、それは自分だけの秘密の世界。誰かに触れられた途端、その世界は骸になる。
というふうに展開します。
#しかし、何言っているのかわからん文章だな>1年半前の私……、って相変わらずですが。

 「きみ」という問い掛けに限って言えば(恐らく、他にも「むら」と感じられたことがあると思いますので)、私は単なる人には決して伝えられない種類の美しさに関する「フリ」と取った……ようです(^^;。結びが必要と感じることはありませんでした。メカザウルスを含むカイの世界が「ノスタルギガンテス」という名前で固定された時点で、カイが「きみ」に伝える必要がなくなってしまった―伝える対象が変質してしまった/カイがそれを見失ってしまった/それの価値は奪われてしまった/価値は「ノスタルギガンテス」という形で固定され、「きみ」を含めた他者に既に共有されてしまったた/引き剥がされる課程を見せることで、かつてそれがどんなにすてきだったのかが伝えられた―という事もあると思います。でも、言われてみると、気になるかも。

ラストについて、

ただ、どうするのかをカイが決めるべきなのではないか、そこまでは 「この物語の望むところ」だったと思う。

もちろん、「それでもいい、これはそういう物語だ」 と言う意見もあるだろうし、そう言われると反論できないのだが。 でも、それはかつての自分と、かつての宝石だったものに対して、 良い振舞いだとは思えない。

 私は、「そうせざるをえない物語だ」と思ったです。というのも、かつて宝物であったものが、いつまでもそこに存在し続けているからです。「芸術」という価値観に絡め取られてしまっただけでも容易に壊したり忘れたりすることはできないのに、さらに樹脂の海の底に封じ込められてしまっては、なおさら。決して触れることが出来ない場所に、生命を除かれたホルマリン漬けの標本のように、琥珀の中の羽虫のように(カイはそうなることを恐怖し続けて、そして結局その罠にはまってしまった……)、魂のない形だけの姿のままで、今も。と、冒頭にあるからなんですね。

 そのまま宝箱に戻してもいい。宝箱を永遠に封じ込めて、なかったことに してもいい。また、ガラス玉をこなごなに砕いてもいい。別の宝石を 宝箱にしまってもいい。

 ということが、カイには許されない。「ノスタルギガンテス」がそこにある限り、カイは、「芸術」という外の価値観に封じ込められてしまった自分のかつての宝物の骸を、忘れることも、封じることもできないのではないかと思うんです。死骸を見続けたまま、どうすることもできず、美しいものを失ってしまったことを永遠に絶望しつづけるしかない。

 もしかしたら「ノスタルギガンテス」を物理的に破壊することは出来たかもしれない。それ自体は形あるモノだから。でも、そうすると、別の話になってしまう。うーん。

 ということで、物語は、やはり、自らの無力さに絶望し、計り知れない喪失感を抱えたカイ……、という所で悲劇的に美しく、決着していると思います。

 んで、私的には、「私はここにいる」ってことで、おっけーなんですよ(^^;。<ここらへんは、もう完璧に自分モードだよな、やっぱり。

 生成する廃墟
 世界の裂け目
 記憶の王国
 あらゆる名づけ得ぬ
 廃墟の
 唯一の
 だからこそ無数の名

 ノスタルギガンテス

…関係ないが、このシーンはすごかった。ぞくぞくした。

 それはもう。とてつもなく残酷なシーンで。それまでカイの心の中でのみ意味を持っていた言葉にならない言葉が、「芸術」という価値のもとに「言い表されてしまう」ことによって力を失ってしまった。それはカイだけのものではなくなり、その言葉を聞いた全ての人にとって唯一の、そして無数の人のそれぞれの心の中に共有されてしまい、その力がそのものの形すら変えてしまった。カイも無数の中の一人に埋没してしまい、それに対する影響力を失ってしまい、それ以上どうすることもできない。という、瞬間でしょうか……。ああ、やっぱりうまく言えない(;_;)。やっぱり生の力はすさまじい……。

 3点目に付いては、なるほどです。相模大野で是非お聞きしたい(^^;。確かに。

 というわけで、まだ、続きます。

去年の俺様

May.14,1999 (Fri)

山周賞は重松清『エイジ』

 で、山周賞は重松清『エイジ』。というのは、まあ、どうでもいいってことはないんだけれども、私としては『チグリスとユーフラテス』ではなかった、ということにすごく安心、つーか。でも、ノミネートされた時点で、私はパニックだったんですけどもね(^^;。うーみゅ。選評みたいんだけれども、新潮社のページに行っても載ってないし、雑誌待ちっすか?

去年の俺様

May.17,1999 (Mon)

ハラルト・シュテュンプケ『鼻行類―新しく発見された哺乳類の構造と生活』

 なんかここ数日体調が悪いです。土曜日は目眩、日曜日は頭痛、月曜日は腹痛……。まあ、腹がおかしいと言いながら、牛乳を一気飲みする私が悪いんですが。

 というわけで、土曜日はハラルト・シュテュンプケ『鼻行類―新しく発見された哺乳類の構造と生活』の廉価版が平凡社ライブラリーから出ていると聞きつけた鼻行類マニア6名が某所に集結。大挙してハナアルキを求めんと、まず喫茶店でスクラムを組み、世界でも珍しいと思われる鼻行類漫画・柴田昌弘『ミッシング・アイランズ』(鼻(嘘……って、既出のネタだよ。単なる誤変換ですが(^^;)とゆめコミックス)を4時間かけて解析したのだった。<一部真実。

 かくて書店へ向かい、それぞれ確かに『鼻行類』をゲット。帯に「新発見!鼻で歩く謎の哺乳類」とある右下に、恐らく分野別分類記号と思われる【生物・SF】という文字があるのも見逃せない。これぞまさしく、真の「さいえんす・ふぃくしょん」ってやつですかい。馬鹿馬鹿しくも真面目にリアルな図もそのままに、これで800円は安いよ!と一同感嘆の声。ところが。

「ジェットハナアルキがない……」

 と誰かが気付く。ああ、ジェットハナアルキがない! そういえば、あれは補記かなんかで、巻末にくっついている形だったんだ、確か<古い記憶。ううむ、しかしなぜ載せない(;_;)。小ネタとして非常に良くまとまっていてよかったのに……。真面目にどうして外したんだろう? 結局約1名、ジェットハナアルキを求めて、博品社版を買いに走ってしまいました。

 うん、1家に1冊ハナアルキ、必需品だよね。

名づけえぬものたち(寮美千子『ノスタルギガンテス』リーディングコンサート)

『ノスタルギガンテス』リーディングコンサート『名づけえぬものたち』開催
 『ノスタルギガンテス』著者寮美千子による朗読と、サックス、ドラムのセッション。
5/16(SUN) 開場 18:30 開演 19:00
相模大野グリーンホール(小田急線相模大野下車徒歩3分)
入場料3000円

 日曜日は待ちに待った『ノスタルギガンテス』リーディングパフォーマンスだ。遅くに起きて、とろとろと出かけて、相模大野グリーンホール。開場して、まず困ったのは座る場所。うーん、ホールが真四角なのだ。正面の辺の中央に舞台があって、残りの3方は全て座席。どこに座ったらいいんだろうと悩んで、ヘビーリーダー(って何だ)の溝口さんたかはしさんも来ていたので、3人で結局先頭左手の席に陣取り。ドラムの方ですね。他のお客さんは、うーん、みんな関係者っぽいぞ(^^;。うひー。

 ドラムの方(豊住芳人)と、アルトサックスの方(藤川義明)と、さっそうと登場した寮美千子さんは、北海道で怪我した足にギブスのバンドが痛々しくも、黒い服とあいまって妙にメカニックな感じ。ドラムとサックスの即興演奏にあわせて、唐突に始まった朗読は、想像していた以上に素晴らしかった。いや、まじで。

 最初はあの冒頭の「ぼくのメカザウルスがどんなにすてきかってことを、どんなふうに話したら、きみにわかってもらえるだろう。」……。寮さんの澄んだ高い目の声で感情を込められて言われると、くるものがある。少年っぽくていいかんじ。続いて、鳥の遊び、捨てるママ、地上へ枝を伸ばし、天へ根を這わせる樹、博物館と見えない駅、などなど、印象的なシーン―特に破滅を思わせるシーンを省略抜粋しながら拾い上げて読んでいく。ううん、こういうのっていいかも。そして、当然あの命名のシーン。あらためて、突き刺さるような傷み。それまで立体的だった世界が平面にならされてしまう恐怖というか、やっぱり衝撃的な台詞だ。

 朗読(というんだろうか、これは)された個所は、小説の全体からすればほんの一部なんだけれども、それだけでカイの内面の絶望をなぞったストーリー足りうる……と思うのは、既にテキストを読んでいたからかもしれないけれども、でも、やっぱりスゴイ。台詞の繰り返しが多かったけれども、一度でも十分に力を持ち得る言葉なので、逆に勿体無かったかもという気もなきにしもあらずでしたが、先週1週間でテンションを高めた(いや、そのためではないんですけど)甲斐もあろいうといもの。痺れました。

 朗読の第一部が終わって、休憩……。とたん、「えー、お客様のお呼び出しをいたします。酒寄進一様、いらっしゃいましたら、マイクの方まで……」 マイクってどこじゃ!?<ミーハー根性丸出し。うきゃー、『最後の惑星』廉価で出してくれい(;_;)。

 寮さんは客席で周りの方々と挨拶したり。私、この辺からかなり浮き足立っていました(--;。すまんっす>関係者。そうこうしているうちに、第二部はドラムとサックスのセッション。というか、なんかスゴイ(^^;。サックスを2本とか3本とか同時に吹いたり、ドラムを撫でながら、口をチューチュー鳴らしたり、音楽を聴くと自動的に睡眠スイッチが入ってしまう私でしたが、迫力もあって楽しかった。

 というわけで、閉会。さーて、どのタイミングで行くんだろうと、そわそわする私。すんません。すると、寮さんが突然「ヒラマドさんいる〜?」って、わーい('▽')<ドミーハー。ご挨拶をしつつ、聞いてみると、ここ数日マックが壊れてしまってネットに繋いでいなかったらしい……。ああ、あんなに愛にまみれた日記を連載していたのに〜(;_;)。溝口さんと高橋さんも紹介して、ロビーでサインをしてもらいました(^-^)。わい。

 ううう、行ってよかった(;_;)。会場でお会いした方々、どうもでした。

去年の俺様

May.18,1999 (Tue)

なぜか3桁

 ということで、hi-hoに移ってカウンタを設置して初めて、なぜか1日の来訪者数が3桁を数えました。114。ぱちぱちぱち。

音楽と私。

 先週レンタルしたCD2本をMDにダビングしてBに渡したら、苦情が(^^;。曰く、2本とも16曲めと17曲目が変とのこと。慌てて自分のも聞いてみると、確かに16曲め辺りから音が飛ぶ。17曲めはまるっきり壊れたレコード状態で、音楽というよりも雑音という感じ。

 にしても、2枚のCDをダビングした4枚のMDの全てが、同じ曲数で音が飛ぶ……ということは、悪いのはCDプレイヤーの方? うーん、そりゃ先月友達が持ってきたCDをダビングするまで(これは大丈夫だった)半年以上埃被ったまんまだったからねえ、悪くもなるか。かー、修理だな、これは(;_;)。

 ちなみにこのデッキを買ったのは、ダイアナ妃がなくなった日。っていつだっけ? 買い替えるには早すぎるねえ、きっと。あああ、でも気分的には買い替えたいよ! 何が嫌って、バックアップに電池が使えないのが一番いや。電源抜くと時計が止まるんだもん。おかげで全然使わないのに、コンセントを抜けない。勿体無い。ああ。ミスったなあと思ったもん。あと、CDが上部についていて、かぱっと開けるやつなので、上に物を置けない! って、そんなに重いものを置く気はないけれども、カセットテープとか、CDとかは上にまとめて置きたいなあ<ふざけている。

 とかなんとか、Mさんと電話で話していて、パソコンの話になった。音源を入れたにもかかわらずCDプレイヤーから音が聞こえないのだ。CDプレイヤーのウィンドウは立ち上がって、ちゃんと音を鳴らすような動作をするんだけれども、鳴らない。んじゃ、スピーカーの端子をCDドライブの出力につければ? と言われて、つけてみると、鳴るじゃん(^^;。やたー、これでCDプレイヤーいらんよ私! 音源入れた甲斐もあったってもんじゃん! と喜んでいると、「いや、それは音源とは関係なくてね〜」と言われて、割とショック(;_;)。私は別に、ウィンドウズの起動音とかはいらなくて、単にCDが聞きたいがために音源を買ったんだけれども、……、じゃあ最初から音源は要らなかったの???('-') うー(;_;)。

 音関係に関しては(も)徹底的に無関心な私というのが露呈されてしまった。ああ、でも新しいプレイヤー欲しいよう<勿体無い。

去年の俺様

May.19,1999 (Wed)

約一年ぶりに更新。

 川島誠のページをちょっとだけ更新。not's Web Pageより俺様好みの研究 - 書籍編、稀Jr's homepageより書評日記のリンクを追加しただけですが(^^;。

 ここにきて、『ノスタルギガンテス』読了報告があいついでおります(^^;。あと1週間早く読んで、相模大野に〜(~^T)g。って、喜ばしい限りですが(^^;。Snowtreeさんのあれれ日記5/19、ニムさんの日時計5/7、と、金沢さんと。安田ママさんが読み終わったそうで、そろそろ書評があがるでしょうか。

 ということで、リンク集さっさと作らないと……。

去年の俺様

May.20,1999 (Thu)

柱の傷は一昨年の

 今日は健康診断であった。

 身長はミリ単位で毎年着実に縮んでいる。一昨年から比べると、5ミリも! まあ、センチ単位でなければ誤差の範囲内ですけれども、ただでさえちびっこなのに。来年は厚い靴下をはいていこう。

 視力は……。去年裸眼視力を知りたいがために、メガネもコンタクトも付けずに行って、「9番はどちらを向いていますか?」「……、9番ってどこですか……?」という間抜けなやりとりをしたこともあり、今回は矯正視力。コンタクトをつける時間がなかったので(まだ慣れていないので(;_;))、メガネで。が、裸眼ではかった視力と、両目とも0.1しか違わない……。裸眼「右0.1、左0.4」(右は盲状態なので、実はもっと低い)、メガネ「右0.2、左0.5」。しかも、一昨年はこのメガネで両方とも1.0あったんだ(;_;)。なんてこったい! まあ、7年前に作ったものだしね、あってないんだろうけれども、さすがにショック。さっさとコンタクトになれなければ。

 体重。読み上げられた人がいたりと(--;いう信じられないハプニングがあった直後で、私も十の位を読み上げられてしまった(;_;)。どうしてそういうことする!? 減っていたのが救いだけれども、その後今年は1.5キロ少なく測っているということが判明。それは毎年のことなんだけれども、去年は1キロだっけ、よく覚えていないが、それでは意味がない。服とか着ているし、財布も持っているけれども、1.5もないよな、それ。確かに部屋で測ったときよりも値が小さいし(笑)。800グラム減ったと思ったのに(;_;)。でも、いくら数字が減ったとしても、肝心のお肉が全然落ちてくれない以上は意味がないわけで。……泳ごう。

去年の俺様
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