超遅れ馳せながら、判定機・・・あなたは「何」作家か。
「感性より、技術が勝る。」に「はい」と答えたりしていたのに(笑)。そーなのか。
愚鈍庵さん(5/27)によると、「相当意地が悪い」話らしいです。>青木さん。傑作ぢらー?
ちなみに『電話がなっている』復刊リクエストは、現在6票。嬉しいっす。愚鈍庵さん(6/1)もリンクありがとうございますm(__)m。
初めてブックオフの開店に立ち会った。とは言っても現地に着いたのは開店3分前で、店の前にはそれなりの行列。入ってみると、溝口さんとか、彩古さんがいらっしゃった。実は『パの字』が100均一にあったらしいとか聞いたが、一番悔しかったのは溝口さんのかごに、藤井青銅『愛と青春のサンバイマン』が入っていたことか。実家に帰ればあるんだけどねー、多分。私の方の収穫は、布教用の本ばかり。ま、そんなもの。
『てめえらそこをどきやがれ!―「奇想天外」傑作選』(1988年大陸書房刊)収録。
大和真也にはまっていたのは、小学校5〜6年生の頃だった。「ジュゼ」シリーズには今でも思い入れがある。多分、延べ3回くらい、買ったり売ったりしているはずだ(実家には完本がある、はず)。『カッチン』は平山さんのリストによると(この本のどこにも記述がないんだもん)、1978年第1回奇想天外SF新人賞佳作を受賞した作品。読みたいと心の端で思ってはいたものの、どこを当たれば良いか分からず、ネットで『てめえらそこをどきやがれ!』に収録されていることを知ったのが5年くらい前か(つくば時代のはず)。でも積極的に図書館で取り寄せるということはせず、今日たまたまブックオフで溝口さんのかごに入っていたのをお借りしたもの。
読んでみて、さっさと図書館で相互貸借を頼み込まなかったことを後悔した。はー、こりゃスゴイや。これ書いた時、大和真也は高校生だったのか。コンピュータの描写がすごい。パンチカードでぱちぱちプログラムを作っては、ライフゲームをやっていたりしている。GoToがどうしたという中身のことはある程度分かっても、単純に考えて22年前のハードについてはよく分からんのだが、どういう高校生だったんだ? とにかく圧倒されっぱなし。
ストーリーの主人公は緒方潤。なぜ彼の名前が回分ではないのかがわかります<ちがう。往年の「ジュゼ」ファンとしては、かなり楽しめた。おセンチモのとしても。文体も「ジュゼ」よりもしっかりしているような気がする。ただ、"彼女"のパートが、わざと変えようとして失敗しているけど。あと、綾小路嬢は何だったんだ? その後の伏線だったんだろうか?
このまま真っ直ぐ育ってくれれば(『カッチン』を起点とすれば、「ジュゼ」の時点で既に曲がっているように思える)、かなりいい作家になったんじゃないかなあ。勿体無い。
永らく放ったらかしだった川島誠ファンページをリニューアルした。つっても、レイアウトを変えて、デッドリンクを削除し、新しいものを加えただけだけれども。
マガジンハウスのサイトに『ロッカーズ』の予告が出ている。
リンク集を更新している時に見つけた児童文学書評内のコンテンツ「共振というコミュニケーション問題―「少年A」に関する言説について」目黒強が面白い。あー、やっぱり評論集出してよ、川島誠の!! 『電話がなっている』も絶対今復刊すべきだって!!
リクエストは現在7票。読みたい/読ませたい人はばしばしよろしく。
『新潮現代童話館2』今江祥智,灰谷健次郎編/新潮社(1992)収録。初読は大学時代。1993年頃かな?
中学校の秋のクラス対抗球技大会。受験を控え、既に部活を引退した体育会系3年生にとっては、中学時代最後のイベントだ。主人公は、体育専科のある高校へ推薦がほぼ内定している、バスケ部のポイントゲッターだった。当然球技大会のバスケットボールでは、クラスを仕切ることになる。だが、クラス担任の若い女教師は、彼にとんでもない注文を付けてきた。「スポーツはできない。勉強はできない。面白いことも言えない。家は貧しい」「背が低い。……太っている。脚が短い。当然、腕も短い。顔がでかい。あごにはうっすらヒゲがはえて」いて、中卒で就職するタカオを、出場させろというのだ。さもないと、高校への推薦を取り下げるとまで言われてしまった。彼は仕方なくタカオをメンバーに加えたのだが、事情を知らない他のメンバーは不満顔。結局マンツーマンで特訓することになってしまった。えらく真っ当な学園もの。珍しくPTAに出しても怒られて破かれることはない話。でも、しっかり川島誠。
例えば、白いバッシュに関するエピソード。ニチイのバッシュは480円で、アシックスやアディダスのものじゃないけれども、タカオにとっては精一杯のものであり、そのことに対する諦観と、それでも買ってもらえたということに対する嬉しさが、文章から滲み出ている。それを語っているのは、健康で運動も出来て、体育会系の性格で、ちゃんといい高校にも行ける主人公の一人称、「見た目」なのだ。主人公とタカオは最後まで全くべたべたすることはない。こういう話でありがちな友情も生まれない。だが、試合をしている時、ある一瞬だけ、強烈な一体感が生まれる。相互のコミュニケーションや好感は全くないままに。いくら言っても説明にならんと思うけど、それが、物凄く「リアル」なのだ。
ストーリーもいい。主人公と担任教師、チームメイトとのかけひき。試合の展開もさすがにドラマティックだ。バスケ部が4人もいる強敵との決勝で、でも全く戦力にならないタカオを出さざるをえない。だが、勝ちたい。担任に「タカオ君は、いつ出るの?」と聞かれた時の、しずかに張り詰めたチーム内の空気、それ以降の試合展開。たった47ページの掌編ながら、長篇1本を一気読みしたような爽快感がある。
これはこのアンソロジーのために書き下ろされたものらしいが、こういうのを集めて短篇集も出してくれないかなあ? お薦め。
既に2度ほど古書店で見かけたのだが、一度も手に取らずじまいで、たまたまWebで見かけるまで気が付かなかった。『あなたの生きなかった未来』が解題されて収録されているんだって? ありゃま。
については、余所を見ていて、色々と言いたいこともあって、実際に長々と書いたんだが、上げるのをやめてしまった。つーか、私が言っても、ねえ?
読者としての私は、現状のままで結構幸せだ。読みたい本は図書館に行けばほとんど必ず読むことが出来るのだから。でも、それだけでは、製作者側へ還元できないことは確かで、それはもどかしく思うところではある。一応物語に対していくらでも金払うよ!という作家の本は、2冊以上買っているんだけどって、それも変な話?
実際、本というのは、基本的には読めればいいのだ。極端な話。「読む」ことと、製作者側への還元が直結していさえすればいいのだ。私は、紙の塊としての本に対して、ほとんど思い入れを抱いておらず、所有欲もない。重要なのは文字列であり、データであり、それから紡ぎ出される物語だ。紙束を所有するのは読むための手段の一つであって、それそのものが目的になることはありえないと思っている。一応言い添えておくが、これは私の感覚の問題であって、これを一般化して考えることはしないつもり。
というわけで、デジタルデータで書籍が販売され、快適に読むことが出来るようになれば、あるいはオンデマンドがもっと一般的になれば、それは恐らく私の理想とする読書環境のイメージに、かなり近いものになるような気がする。
だが、そこには既存の流通システムの入り込む余地がなくないわけで(特に書店)、うーん、やっぱり現行のシステムじゃあ、ねえ?
今の例えば古本屋の問題とか、BOOK・OFFの問題とか、書店の問題を語るとすれば、多分私は過剰な出版点数の話をしなくちゃならんと思うんだが、それについて語るためには、明日の日銭を稼ぐために新刊を出さねば立っていることさえままならないような、現在の出版社のシステムについて話をしなければならず、そうさせている流通の話とか、その先の書店の話とか、無茶苦茶長くなってしまいそうで、面倒臭いし、別に私がせんでもいいと思うので、やっぱりパスなのだった。
誰も、手をこまねいてみているだけではないと思う。一生懸命自転車をこいでいて、すこしでも止まれば倒れてしまう、でも、こいでもこいでも坂道の傾斜は日々どんどん深くなっていって、そうすると下り続けていくしかなくてと、私はどうも悲観的に物事を見てしまうのでいけないと思う。みんなで一緒に骨折(あるいは死亡)する覚悟で、自転車を飛び降りることができるか、とか。ちなみに、BOOK・OFFも一緒に下り坂を走っているんだと思っている。
うーん、むっちゃつまらん話になってしまった。やっぱり書かんほうが良かったかも。
相互貸借。今回は都立日比谷から。
昼休み、弁当を食べながら『幸福とは撃ち終わったばかりのまだ熱い銃』を読み(私は図太いので。さすがに『歯医者』は避けたけど)、続いて『悲しみの池、喜びの波』を、帰りの電車でクミちゃんと卵入りカレーうどんを食べるシーンを読み、『田舎生活(カントリーライフ)』へ。
打ちのめされる。毎回、借りるたびに何か書こうと思うのだが、書けるはずがない。こないだやっと書いた『セカンド・ショット』も、粗筋紹介に終始しちゃっているが、まだ書き易い方で、『幸福とは撃ち終わったばかりのまだ熱い銃』の感想なんて。
そう言えば、以前酒寄進一さんに、寮美千子ファンページの他に川島誠もやってますと言ったら、変な組み合わせだと笑われたが、特に『幸福とは〜』の主人公と、『ノスタルギガンテス』のカイは、すごく似ている気がする。
誕生日会というのは、ぼくのきらいなもののひとつで、こんなにいやなのは、せっかくやった宿題を机の上においてきてしまったことを、学校に行くとちゅうで思いだしたときぐらいのものだ。いっそのことおいてきてしまえばいいのかもしれない。誕生日会も、誕生日のプレゼントも、宿題も。公園の便所の中にね。
(中略)
誕生日会がなぜきらいかっていうと、プレゼントをえらばなければならないし、誕生日会によばれたときには、よんでくれたひとをこんどはよんであげなければならない。だから、ヒロコちゃんはぼくの誕生日にうちによぶことになっているんだけれど、来てくれるかどうかわからなくなってしまった。
その、ヒロコちゃんの誕生日会のとき、消しゴムのタケシくんのプレゼントは消しゴムだってわかっていたから、ヒロコちゃんはほっとしていたようだった。いままでひとつひとつのプレゼントにうれしいふりをしていて、もうだいぶつかれていたから。とにかく、安心だからね。川島誠『幸福とは撃ち終わったばかりのまだ熱い銃』
(国土社『電話がなっている』収録)(p.6〜8)
死んでいるよ。みんなもう滅びているんだ。核爆弾はとっくに破裂している。ぼくたちはみんな、死者の見た夢なんだよ。壊れた博物館の標本都市の記憶の中に、模型になって住んでいるんだ。そうだろう。みんな、知っているじゃないか、そんなこと。知っているから、だれも言わないんだろう。
寮美千子『ノスタルギガンテス』パロル舎(p.153)(*1)
どちらも、現実に行なわれる物事を、茶番を見るような視点で見ている。現実から乖離しているということとも違う。現実の奥底までをひっくるめて見通して、その全体を自分にとっての現実として捉え、他の人間も同じ所に立ちつつ、茶番を演じているというような。自分が見ている現実と、他人が見ている現実の相違を、とてつもなくナイーブ感じ取り、その齟齬に感情が引き付けを起こしている。
あとは、キれたときの反応。カイもキれるとかなり恐いけど、川島誠の登場人物は、いきおい下(シモ。排泄系だったり、性的なことだったり)の方に走る傾向がある。それは著者の性別にも関係あるとは思うが、やっぱり『歯医者』のラストはすげーや。うっぷ。
私ではやっぱり、この短篇集について書くには力不足で、いかん。
Yahoo!の陸上競技800m掲示板の方が、『800』を読んでくださったようだ。川島誠ページからもリンクしちゃえ。
青木さんの『しろいくまとくすのき』もリンク。『くま』でそんなことを言っていると、『電話』はもっと100倍(推定)アレかもです、はい。そうだそうだ、「児童文学」というレーベルと装丁と、川島誠の話もしようと思っていたんだけど、遅いのでまた今度。しつこくしつこく続きます。
『沢蟹まけると意志の力』を読んだのは、もう2年も前のことか。これはかなり気に入ったのだが、『イラハイ』に手を出すのが遅れたのは、周囲の評判が芳しくなかったからだ。大学時代の友人に佐藤亜紀を薦めたところ、とても気に入ってくれて、その旦那が佐藤哲也であり、夫婦で日本ファンタジーノベル大賞を受賞しているのだと教えると、友人は遅読の私を差し置いて、先に『イラハイ』を読み上げ、「面白くなかった」と報告したのだった。ストーリーがなくて、退屈で、馬鹿にされた感じがした、ときいたような気がする。そのせいか、『沢蟹』は用があって読み、非常に楽しめたのだが、『イラハイ』はなかなか読むにいたらなかった。
なんだ、面白いじゃん。イラハイというのは、かつて存在したとされる架空の王国の名である。これは、とある村に住む青年ウーサンが、婚礼の日に花嫁を奪われ、取り戻すまでの物語である。但し、物語が始まるのは、文庫版全310ページの146ページからだ。物語が始まるまでの前半部分は、ひたすらイラハイという国や、王や王子や、軍人や商人や人々の、愚かさと分別にまつわる限りない問い掛けが繰り返される。それら一つ一つの問い掛けと、その後の展開に、いちいちユーモアが効いていて、本当に読んでいてニヤついてしまうのだ。
イルカもカエルもとってもぷりてぃ。これを読んでいる時、ちょうど深夜番組でアイドルがイルカと泳ぐために、水族館で下働きをするというのがあったんだが、イルカって本当に、わざと人に水を掛けたりするんですな。頭をヒョイっと水面から突き出してバシャン、前肢でバシャン、尻尾(後肢?)でバシャン。水族館に行った時には、気をつけねばなるまい。
「物語」の「物」が語られるべき事柄で、「語」が語ることそのものだとしたら、この物語は「語」による物語だ。あるいは、メタに「物語」という「物」をさらに語ってしまう物語でもある。読み終えた後には、ある種の達成感も感じられ、なかなか気持ちが良かった。
『沢蟹まけると意志の力』を人に説明する時に、一言で言えば「淡々とした島本和彦」と言ったことがあるが、『イラハイ』もそんな感じがする。島本和彦を23巻ぐらい一気読みした気分だ。うーん、幸せ。『沢蟹』ってまだ手に入るのだろうか?
著者のサイト大蟻食の亭主の繰り言。ファンサイトとして、イラハイの佐藤哲也氏を応援する会。略して「イラ会」というのもある。
火曜、水曜と、二晩も連続で蚊に悩まされて、まんじりともできず、完全に寝不足。川崎時代も蚊とは無縁だったし、去年は越してきたここにも出なかったから油断していたのだが、なぜ突然。つくば時代に買った電氣蚊取りは、既に液体が気化していて、つけても空炊き状態。
そこで、どうせ買うならということで、去年ゲットできなかったアースの豚型電気蚊取りにした。会社の近所のドラッグストアに、現品限りで売っていたものなのだが、去年の売れ残りっぽい。今年は作らないのだろうか。可愛いのに。
おかげで、昨夜はやっと安眠できた。豚様様。
『電話がなっている』復刊リクエスト13票。小学生の頃読まれた方も投票してくださっている。しかも、復刊希望のページまで!! ありがたや。羨ましや。やっぱりそう、衝撃を受けざるをえない物語でありましょう。知られていない割には、読んだ人には例外なく強烈に焼き付いてくれているのだろうか。こういう反応は嬉しい。
ジョニィさん曰く、「電話がなっている」は、正直、2〜3年生だったら何の話か分からなかったと思う。とのことだが、いやあ、全くその通りで。
短篇「電話がなっている」1本を取り上げてみたところで、一体対象年齢をいくつくらいのつもりで書いたのかは全く不明。内容的には小学校中〜高学年くらいだろうか。でも、アンソロジーにしろ、単行本にしろ、フォントを見ると小学校中学年くらいまで、という感じがする。
単行本『電話がなっている』全体を一つの作品として見ると、その混乱はいや増す。これは誰に読ませるものなのか、誰が読むべきものなのか。例えば、単行本の冒頭に入っている「幸福とは撃ち終わったばかりのまだ熱い銃」は、漢字平仮名の構成を見ると、小学校低学年っぽい。えー、下な話になって非常に申し訳ないし、ためらいもあるのだが、それにこんな部分がある。
公園の便所にはいろんなものがおいてあって、うんこだけじゃなくて、雨とトイレの水でべちゃべちゃになったマンガの本とか、ポケットティッシュのふくろとか、ゴムふうせんとかがある。タケシくんは竹のぼうの先にそのゴムふうせんをひっかけてふりまわしたんだ。(p.6)
悩む。自分がこの部分をどう読めばいいのか。ううん。例えば、よく聞く話で、浜辺にはいちぢく浣腸が沢山捨てられているというのがあるが(私は山側の人間なので、よくわからない)、それがどういう意味なのかは私にとっては未だに謎だ。もしかしたら、口に出すのも憚られるような卑猥な意味があるのかもしれないが(半ば本気で思っているので、検索してみたんだが、真相がどこかに書かれていませんか)、とにかく、素朴な疑問レベルの話ではある。そ、そんな感じ? ちなみに川島誠はこういう遊びをすることについて、特に戒めるでもなくて、この話は終わっている。私は衛生的にあまりよろしいものではないと思うので、子供に真似して欲しくはないが、これを読んだ子供はどう感じるんだろうか? でも、きっと浜辺のいちぢく浣腸と同じように、あるものとして(あるのか?)受け止めればそれでいい部分なんだろう。つーか、ある(ことになっている)んだし、それでそういうふうに遊んでしまうのは、当然といえば当然なんだろうか。ううむ。
5/13児童文学と川島誠にも書いたことだが、読者対象としての子供の知識と認識のレベルと、あるべき事実をいかにすり合わせて書くのか、ということ。知識として「わかる」とか、「通じる」ことを度外視して、「ある」ことを「ある」ものとして、川島誠は書いている。上の例はいささか極端だけど、例えば『800』の脚の悪い山口に対する中沢の反応とか、山口のわざとひけらかすような行動とか、『夏のこどもたち』の隻眼の朽木に対する周りの反応とか、『セカンド・ショット』の主人公からタカオへの「あー、うっとうしい」という思いとか、そういうものも、「みんな一緒に頑張ろう」「友達になろう」「差別は駄目だ」という建前とは別に、厳然として人々の中に存在する。それを、良いとか悪いとか価値判断すること無しに、「ある」ものとして書くこと。そういう物だと思うんだが。
しかし、「電話がなっている」「悲しみの池、喜びの波」は、一部身体的機能、行動にまつわる用語が、多分本当に小学校低学年では全然わからんと思うなあ。そこがわからなくても、切なくていいとは思うけれども、果たして小学生でこの手の切なさを感じられたのかも、我が身を振り返るに、大いに疑問ではある。ああ、私がこの本を出た時に、11歳の時に読んでいれば、どういう思いを抱いたんだろう。
私には著者がどう読ませたいのかを探りながら読んでしまう癖がある。児童文学ほど、この癖を意識させられるジャンルはない。そういうジャンルで括られているからには、厳然として、私は著者の想定している読者ではないと思わせられるからだ。児童文学は児童(小学生)が読むものとして書かれているはずで、川島誠も実際にそう言ってこの話を書いている(どの記事だかは発掘しないと不明だが)んだから、本来は児童が読むのが正しいんだと思う。でも残念ながら、私が児童だった時にはこの本には出会えず、今もう既に私は児童ではないわけで、豆腐はマメには戻らないっつーか。つくづく残念だ。20過ぎてから読んでも、面白さは存分に味わえるのだが、恐らく、子供が味わうものとは全く違っているだろう。
[JUN]さん@白炭屋の意見。はい。確かに、すんげー痛いんですよ。タカオ。私もチビだし(背の順で2番以降になったのは1度だけ(^^;)、運動できないし、体育祭も文化祭も鬱陶しく思うだけだし、楽しくやっているのを馬鹿にしていたけれども(そしてそれが今は勿体無いことしていたなあと思わないでもないけれども)、彼等も私らのような無気力人間を馬鹿にしていただろう。その両者の思いを、そのまま川島誠は書いてしまう。だから痛い。
実際、『セカンド・ショット』のタカオは私なんかより余程素直で、無謀なまでに素直で、それは本当に無謀なのだった。イタタタタタタタ。
そして、ラストシーンのあのリアリティ。まるっきりほとんど同じような光景を見たことがあって、それがこの短篇を読むたびに、強烈に蘇ってくる。小学校と中学校で、3年間同じクラスだった彼の書いた作文の内容とか。タカオは私の中のイメージでは、まるっきり彼に差し替えられているし、同時に私でもある。主人公も。
主人公の最後の言葉は、川島誠にしては確かに陳腐だけれども、他に彼にどう言うことができよう? 私は人生色々としか思えなかったし(もともと私は無気力で悲観的な人間なので)、彼にもどうしようもないのだ(どうこうする義務も、責任も、必然性もない)。どうにもならないことはどうにもならい。それが結局、川島誠のどんな作品にも共通に流れているスタンスの一つではあると思う(決してメインじゃない場合も多い)。そのどうにもならないことは、本人の意思とは無関係に理不尽に存在することもあるし、不公平なことも、どう抵抗してもどうにもならないこともある。それをどうにかするのは、本人の気の持ちよう。外側からはどうにもならない(どうにもならない原因を取り除くなら話は別だけど)。決して、「誰とでも仲良くなって、友達になろう〜」というようなことは言わない。
川島誠のすごいところは、どちらの側についても違和感なく、すらりと描けることにある。タカオの痛さも本物だし、主人公の自尊心も本物だと、私には感じられる(重ねて言うが、主人公の目から、タカオの痛さを炙り出す手法にも唸らざるをえない)。『800』の中沢も、『ぼく、歯医者になんかならないよ』のヒロミも、どちらも川島誠のキャラクター。すごすぎ。一体、どういう人なんだろうと、昔は相当疑問に思っていたのだが、雑誌『飛ぶ教室』48号[特集:河合隼雄氏と子どもの本とのほどよい関係]の中の「子どもと学校」のエッセイだったかな、ちらりとその辺りのことに触れていて(他に触れているものを見たことがない)、やっとなんとなくちょっとだけ納得したような気がする。なんとなく、だけど。
どうしてこの人が児童文学というジャンルに、ここまで過剰に拘泥するのかも含めて、色々と奥が深い。ついでに、どうして『もういちど走り出そう』だけは、あんなにつまらないんだろう。謎。
昨夜、久々に眼鏡を掛けた。今年の正月からコンタクトで生活するようになったので、ほぼ半年ぶりだ。久しぶりの眼鏡は、ほとんど度が合っていなくて、掛けても私の座っている位置のちょうど対角にあるテレビは、やっぱりまともに見えない。それでも裸眼よりも多少はましだろうと思って、2時間ほどかけていた。これが良くなかった。
さ、寝ようと思って、はずした時だった。壁がぐらぁあぐらぁあと揺れている。ほぼ半年ぶりの大目眩。吐きそうになりながら、ベッドに転がり込んだが、目を閉じても揺れる感覚は続く。朝、目が覚めてもまだ揺れていた。
久々に車酔い止め薬を飲んで、外出。難儀。
Uが東京に出て来たので、Rといっしょに新宿でお買い物。本当は3年くらい溜まっていたRの誕生日(1月)プレゼントを、一緒に買おうという話だったのだが、希望していたカチカチと音のならない時計は、既に別口からもらったらしくて、旅行鞄に変更。
別の売り場を周っている途中で、とってもナイスなキッチンタイマーを発見。ウルトラマン型で、時間が来ると、「ピコーン、ピコーン……、ジョワッ」と鳴るらしい。急遽、これをUの誕生日(6月)プレゼントに決定。ついでに私の誕生日(12月)プレゼントも買ってもらうことになった。ヒロミチ・ナカノの黄緑のカエル柄折り畳み傘。自腹でお揃いの水色の長傘も購入。カエルの窓付き。
誕生日プレゼントは前後6ヶ月間受付、というのはネタじゃなかったのか……。
川島誠「電話がなっている」を収録しているアンソロジー『だれかを好きになった日に読む本』。このシリーズ『きょうはこの本読みたいな』が作られたきっかけが書かれたページ「自叙伝の練習─あるアンソロジー編集者の告白─」宮川健郎をすどー。さんが見つけてくださった。
あのー、これってもしかして、「電話がなっている」が教科書に載るかもしれなかったってこと?(大汗) 「ぼく、歯医者になんかならないよ」が?
教科書といえば、山川方夫の「夏の葬列」は強烈だったねえ。うん。でも、「電話」は……。あの邪悪なアンソロジーが教科書がらみだったとは。マジですかい。