週末は予定通り、再び帰省して、母と大阪・富田林(とんだばやし)のPL花火芸術に行ったのだった。
実家のある池田から、会場の富田林までは電車で1時間半。阪急で梅田から天王寺に出て、そこから近鉄。行くぶんには何とかなる距離だが、帰りは絶対に池田までたどり着けないときいたので、その晩は天王寺の宿に泊まることにした。
とにかく人出もスゴイらしいということで、3時に天王寺を出て、4時前には富田林。私たちは山をのぼりきらないで、途中にある1000円の観覧席(駐車場で、地元の人が商売をしている)で7時45分の打ち上げ待っていたのだが、8時半には終わるというので、8時すぎから人込みの中を後ろ向きに駅に向かいながら花火を見たのだった。うーん、確かに1時間で12万発は伊達ではないかも。とにかくひっきりなしに、重なり合うようにして花火があがるのだ。ただ、高そうな花火はなかった。どれも割とシンプルだったり、変り種も小さめだったり。でもきちんと組み合わせやプログラムを組んでいるらしく、かなり面白かった。
駅前に下りてきた所で、ちょっとブランクがあった後、かなり盛大に変わり種の花火が一度にあがったので、これで最後かと思い――ラストは7千発のスターマインと聞いていたんだけれども、違うなあと思いつつ、駅に入った所が、5分ほどしてまたあがっているやん(;_;)。幸い駅の先頭の方は割と空いていて、改札の裏から花火が見えたので、そこからしばらく見物。むむ、9時過ぎているし、こんどこそこれがラストか!?――スターマインじゃないけど、と電車に乗ったら、しばらくしてまた盛大にあがる〜〜〜(;_;)。で、どうもその時が、ラスト7千発だったようだ(多分)。今度こそスターマインだったし。電車の窓から見ていると、弟から「池田からも見えてるで」と電話が入ったりした。うう、もうちょっと粘れば良かったよう。
ただ、やっぱり人出のすごいことすごいこと。いくら近鉄が5分間隔で天王寺(あべの橋)直通の電車を出していても、山の上でしかけを最後まで見ていたら帰れなさそう。翌朝の新聞によると、35万人の人出だったそうだし、たとえ天王寺に宿を取っていても無理だ。これは富田林野宿を覚悟して、仕掛けとかナイアガラを見るつもりがないのであれば、打ち上げの直前に来ればいいかも。かなり高台からあがるので、駅前でも十分に迫力ある花火を堪能出来る。ついでに、富田林の手前のキシ(字失念)でもかなり近い感じで見えることが分かった。帰りの電車も終了直後の先頭車両を狙えば乗れるし、来年以降はキシで見るか。
ともあれ、なかなか良かったっす。ただ、遠いなあ>富田林。
うちの猫様の容体は静かに悪化の一途を辿っているようで、先週耳に溜まった血を抜いてもらった時には、9月中頃までと言われてしまったらしい。ということで、今回は(多分、今度こそ)猫との最後の挨拶という意味あいもあったのだった。まあ、最初2、3ヶ月と言われた所を、1年2ヶ月も生きているんだから、もった方なんだろうけれども、やっぱり正月まで持ちそうにはないなあということで。時間がなかったので、ほとんど構えなかったけれども……。
ところが、東京に帰ってから電話してみてびっくり。外に出たがるので、散歩に行かせたら随分帰ってこず、とうとう死に場所を探しに行ったのかと、母が心配して探しに行くと、しばらくして猫が鼠をくわえて帰ってきたのだった。確かに若い頃は雀、鼠、ヒヨドリ等をつかまえては見せびらかし、食べていたものだが、こんな今にも死にそうなよぼよぼの猫につかまる鼠も大間抜けだよ(;_;)。しかも、体が弱っているのに生鼠なんていう消化の悪いものを食べさせるわけにはいかないと、母が箸とティッシュを取りに行っている間にペロリと平らげたというんだから、しぶとい猫め。正月まで生きていそうな気がしてきたぞ(^^;。
うーん、どうも自分は詰め将棋の感覚で本を読んでいるのではという気がしてきた。と言っても、私は詰め将棋を実際にはやったことがないし、「定石」とか言っておきながら、囲碁の詰め将棋のようなものを何と呼ぶのか知らなかったりするのだが、うむー。
著者側がこう書いたんだから、次はこう来るんだろうというようなパターンを常に考えてしまっているような気がする。ただ、それはあくまでも書き方であるとか、道具の配置だとか、そういう「書く」にあたっての外側のテクニックの部分であるので、ミステリー読みには全然向いていなかったりする(謎と関係無しに、「こういう書き方をするのなら、こいつは犯人だろう/ではないだろう」というような読み方)。とにかく、著者がそれまでに置いた石の通りに話が進まないと、「なんでや?」と思ってしまうのはそのせいであろうと思われる。
ここで一応言っておくと、定石どおりであることと、パターンどおりであることは違う。あくまでも、それまでに著者側がどのような手辿ったか、その流れにそったものであるかどうか、ということなのかとおもう。
逆に著者には、「こうかけば読者がどう考えるか」というようなことを念頭に置いて書いているものだと思うし、そうであるものが私の好みだということなのかもしれない。だから『チグリスとユーフラテス』の人工子宮の話なんかは気になるわけでした。新井素子は、別に考えていないんだろうなあ、とか。
とかなんとか。一応これは7/27感想と感動の続き、のつもりだったんだけど、まとまらない。
=>つづく
つづき。
将棋では定跡というのだそうです。おお、ちゃんと辞書にも載っている!<見ろよ(--;。どうもありがとうございます。
「定石」と「伏線」の違いですが(やっぱりオレ用語だわ、すみません)、伏線というのは後々の筋のために書かれるもので、対して定石というのはストーリーじゃなくて、対読者のものというか、「ここをこう書いたら、読者は恐らくこう読んでくるだろうから、次はこう書こう」というようなニュアンスのものと言いましょうか、そういうものです。ストーリーの「中」じゃなくて、外側の話を読んでしまっている。ああ、なんて自分は邪道なのかしらと思ったり(;_;)。考えてみると、常にそういう読み方をしているような気がしたのでした。
だから叙述トリックでころっと騙されます。騙されるような叙述トリックが大好きです(^^;。すごい建物トリックとかがあっても、あまり感動しません。話の中の細かい道具だてを私は追っていないようなので(;_;)。馬鹿? 馬鹿。
でもって、私は児童書は読めないらしい……ということも、それに絡んでくるんですが、ああ、とんでもなくみっともないよ。
hosokin's roomからいらした方々……、って、ここは読まないか。うう、にしても、よりによって鬱屈している日っすか。あちゃー。
毎週少なくとも1冊ずつ感想を更新する。読めなかった場合は遡及して更新する。
ということで、大阪で買った佐藤賢一『ジャガーになった男』を読んでいるんだが、きつい〜。男の浪漫が辛い。「あんたばかぁ?」って感じになってしまって共感できない〜。小説的には上手いんだろうけれども……。他のもこんなの? 困った。
とりあえず『スプートニク』(の恋人じゃないよ)が来るまでは頑張るけど、つらい。
伸助とカップルの番組、面白すぎ〜('▽')。とか思いながらなので、散文的になってしまった。だめだこりゃ。
うーん、筋道……、多分それだと思うです。
私は相当ばか正直に読むので、読者をいかに導くかに主眼を置いて書かれる叙述トリックというのは、かなり読みやすいんですな。著者は正解への道を細く(勿論、考えればたどることが出来るよう十分な手がかりを与えて)、罠に引き込むための道を丹念に太く作ることに(恐らく)腐心してくれるであろうから、読む側は素直にリードされていけば、ちゃんと引っ掛かって騙されることができる。この場合の醍醐味は、読み終わった後に、「うお、騙された〜」とのた打ち回って悔しがることにあります。当然。
叙述トリックでない小説であっても、読者を(著者的に)正しく導くための布石がないと、読めないです(;_;)。間違った道を進まないための、と言った方がいいかも。自然に書かれてあることに納得させてくれるだけの過不足のない描写というか。それにはやっぱりきちんと組み立てられた素地が必要で、やっぱり布石が重要だと思うんですわ。
以下、一通り書いたんですが、コメントアウト。なんか『チグユー』憎しみたいな書き方になって、自分でも嫌になったので。すごく素直に読んでいるつもりなんだけれども、駄目ですか。やっぱり、性根が腐っているのか、私(;_;)。つーか、別に『チグユー』は憎くも何ともないんです。単に、酷い作りだなあと思うだけであって。私は自然に読んでいるつもりなんだけれどもなあ。裏読みしているわけでもないしなあ。
私はどうも「児童書」ってやつが苦手なのだということについて。
一昨年、佐藤さとるの「赤んぼ大将」シリーズの新刊が二重数年ぶりに出た。『赤んぼ大将さようなら』である。佐藤さとると言えば、私が本を読むきっかけとなった、「コロボックル」シリーズの著者だ。勿論、「赤んぼ大将」シリーズも、既刊の『海へいった赤んぼ大将』『赤んぼ大将山へいく』は小学校の時に読んだ。その新刊が、二十数年ぶりに出たという。作中の時間も同じように流れ、赤んぼだった主人公のタッチュンが、25才になった話らしい。期待しない筈がない。
でも、読んでみると、なんかもう、とてつもなく駄目だった。なんでこんな話書いたんかなあと、相当落胆した。
赤んぼ大将タッチュンが25年前に救ったモモンガの村に、謎の物体が出現する。時を同じくして、時計組合が管轄する世界中の時計が狂いはじめた。時計たちは正しい時間を指していないと駄目になってしまう……。今は時計組合のリーダーとなったタッチュンの目覚まし時計は、謎の物体に時間の狂いの原因があるものとして、解明に取り組む。が、謎の物体が話す言葉は、動物言葉とも機械言葉ともつかない奇妙な言葉であり、時計にもモモンガにも理解することが出来ない。その両方の言葉を聞き取ることが出来るのは、話し言葉を覚える前の人間の赤んぼしかいないのだ。だが間の悪いことに、今はあらゆる赤んぼ言葉を理解できる赤んぼが存在しない。窮した時計組合は、25才のカメラマンになった赤んぼ大将・タッチュンことタツオの時間を、一時的に25年逆行させて赤んぼに戻し、協力させる。
なんでわざわざタッチュンの時間を逆行させたのかなあ、と思ってしまったのだった。だいたいですね、今の赤んぼに動物言葉と機械言葉をしゃべれるのがいないという条件づけからして、なんか「昔は良かった。今の子供は〜」なんていうお決まりの台詞を感じてしまったり。
んで、一応時間を逆行させることに関しては可能であるという説明がきちんとあって(『海へいった』の時に、赤んぼだったタッチュンの時間を進めて、大人にしたことがあったので、それと今回の逆行で、プラスマイナス0になる)、それはいいんだけれども、タッチュン自身は25才の自分から赤んぼに戻されたことを知らされないまま、『山へいく』の続きであるかのように、健気に協力するんですわ(都合のいい道具ですかい!?)。でも実際には25年という時が経っているんだから、モモンガ山は既に数代も代替わりしていて、知り合いのモモンガたちは皆死んでしまっている。当然共に苦難をくぐりぬけたモモンガ・モンザエモンもいない(実際にはモンザエモンは『山へいく』の時点で行方不明となっているが、そのことすらタッチュンは知らない)。
わざわざ、本当に無理矢理理由をこじつけてまで、わざわざ25年後の舞台を選んだにもかかわらず、全然その設定がストーリーと絡まないのだ。一番納得いかんのは、タツオのこれまでの人生25年間が、なきものにされている点だ。そして、その過ぎた時への感慨も、モモンガたちの短い命のはかなさも、変わってしまった都市も自然も、何もナシなのだ。いや、私はちょっとは感じたさ。子供の時に前作を読み、タッチュンと同じく二十歳を過ぎた私のような昔のファンならば、前作を読んだ時の思い出も含めて、何らかの感慨を感じることが出来るだろう。でも、今読むべき子供は?
例えば、例えばですが(あんまりこういうことを言うのはアレだなあと自覚しつつ)、作中、カメラマンのタツオは25才で、お相手もいらっしゃるようなのだが、んじゃあ、なぜ、赤んぼ大将がタツオの子供ではいけなかったのかと考えてしまうわけですな。タツオの子供が、かつてのタッチュンと同じように時計とモモンガにいざなわれて、冒険に出かけ、そこで父も昔は赤んぼ大将として活躍したのだと聞かされる……という話だったらと考えてしまう。父も昔は自分と同じく赤んぼ(子供)だったのだ、やがて自分も父と同じく大人になるのだ、という感慨は、子供にとってはすごく魅力的だと思うなあ。25年の時の流れも、読む子供たちの「実感」として受け入れられるんじゃないかなあ。あと、モモンガたちの人間よりも速いサイクルで回る生と死も、ごまかさずに(あれはごまかしだ〜(;_;))書けたのではないかなあ。
とかなんとか。でもまあ、これらは(当時)22才だった私の感想であって、本来の読者である子供はそういうふうにはきっと感じないだろうし、それなりに赤んぼの冒険物語として面白く読めるのではないかなとか。そこで面白く受け止められるように、というのが恐らく佐藤さとるの意図する所であって、私のようなヒねた読者というのは、佐藤さとる設計の詰め将棋の相手ではないんだろうとか、色々と考えてしまって、うーん……。
でもまあ、児童書だからといって、何かを(どこをどう?)区別して読むということはできないんだよな。所詮は子供向けというような感覚で読むことの方が失礼という気もするし(ちゃんと大人も相手に想定した詰め将棋なのかもしれない)、子供にさえ楽しめるものであればという考えも、それはそれでOKで(当たり前だ)、そういう作品に対して「子供だましだ」なんていうことは的外れだろう。でも、きっと私はそれに対して不満を感じる。それはそれで、著者の意図がどこにあろうとも、正直な感想であることには変わりがないのだ。
著者の意図が本当はどこにあったのかなんていうことは、テキストから想像するしかないんだし、そこにある「物語」だけが読者にとっては「全て」なんだと思う。これは手加減して読んでねということならば、手加減して読ませる指示をテキストでしてほしいし、それをしないのであれば、そう読まれなくても仕方がないのではないだろうか。結局感想なんて、テキストをもとに「自分が読んでどう思ったか」によるしかなくて、つまり、やっぱり「どう思ったか、正直に」が全てなんだろうとか、うむむむむむ。つながってます? 相当オレ論理で、しかも日本語能力乏しいなあ……。要するに、分かりやすい話しか読めないんだろうなあということかも。
というわけで、明日からはぐろぐろせずに『キリンヤガ』読むべ。
川崎から引っ越して半年以上になるというのに、相変わらず散髪に行くのは川崎なので、月に一度程度は川崎に向かう。んで、揃いの漫画本がやたらと安くて(定価390円前後のものなら、1冊単価70円くらい)お気に入りだった古本屋を覗いたり。
特に出物がなかったので、駅に向かおうとすると、道の反対側にブックオフができてるやんけ。床面積はそう広くもないけれども、一応3階建て。2Fの文庫コーナーで、ちょうど借りて読みかけのレズニック『キリンヤガ』が400円だったので買うことにする。あとは保存用の佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』『戦争の法』。川島誠『夏の子供たち』があったけれども、こちらは保留。
1Fの漫画コーナーでは、伸たまき『パーム―愛でなくIX』。それから、文庫漫画のコーナーをチェックするが、目当ての三原順はなし。100円コーナーには……、揃っていた『はみだしっこ』〜。そこで、9巻以外12冊をゲット。うひゃー(^0^)。
って、本棚もういっぱいだよ(;_;)。整理しなきゃ。
というわけで、今週の更新は、レズニック『キリンヤガ』。川崎の往復で半分まで読めてしまったので(速い!)、後半200ページはドトールに詰めて2時間半で読了。一気読みだった。おもしろかった。
でも、コリバ歪みまくり。素朴な暮らしに憧れて、不便を求めて田舎にやってくる都会の人間のよう。その「不便な田舎」に暮らしている人々は、何も不便を求めているわけではない。鉄道も欲しい、上下水道も欲しい、より便利な世界を誰もが求めている。それをちらりと眺めただけで、本当の不便を知りもせずに、「素敵に不便ね」などというのは、そこに住んでいる人たちへの冒涜だよなあ。なんか、似たようなことを谷甲州がどれだったか航空宇宙軍史の文庫本のあとがきで書いていたけれども。
例えば、蕎麦粉100%の蕎麦と、繋ぎに小麦粉を利用した蕎麦では、どちらが旨いのか。腰が出て小麦粉入りの方が旨いのかもしれないとか。それを、蕎麦はもともと麦や米が育たない痩せた土地で飢えないように作ったものなのだから、小麦を繋ぎに使うのは蕎麦として間違っているとか、伝統に反するということで否定されても、小麦に不自由しない時代になって、実際に小麦粉入り蕎麦の方がおいしければそちらを食べたいでしょうな。って、私は蕎麦を食べないので自分ではわからないんですけどね(^^;。やっぱり蕎麦100%の方がオイシイのかな?
さ、これからあちこちの感想とか、議論を読めるぞ!!(^-^)お待たせしました! 架空書評勝負の投票がいよいよ開始しました!!(^0^)ノ 方法は簡単、出場作品リスト兼投票フォームのページから、全ての作品に目を通し、アナタ基準で素晴らしい!と思ったもの、上位3作を選んでラジオボタンで記入し、必要事項に記入して、投票ボタンを押すだけ!! ちなみに私の作品はこちら!<こういうのってやっていいんだっけ?(^^;(って、私に投票しろってことじゃないんでね) 締切りは8/26。よろしくね(^0^)!!
寮美千子ファンページ・記憶の王国には、新しく捕獲した十夜さん@空想風景の『ノスタルギガンテス』感想を追加。そこを引用しますか! いいなあ……。
とりあえず自分の読書量増やそう。
もひとつ逆リンクは、『キリンヤガ』書評リンク集(修正ありがとうございます)。
ここからリンクされている他のページとか、ネタバレ議論中の大贋なんでも伝言板を読んでいると、他の人が『キリンヤガ』のどこをどのように解釈して、どのように感じ、考えたのかということがわかって、面白い。
つーか、私、アフリカのこと、全然知らないんで(^^;(キクユ族が、実在する部族かどうかすらわからないまま読んでいた。マサイ族ぐらいなら聞いたことがあるけど、その程度)、そういう知識の下地のある人の話を読んでいると、自分がいかに狭く読んでいたのかがよくわかる。
私は、実在する物とは全く関係なく、ただ小説を、その中の記述のみの、空間の中で展開される物語として読んでいた(私の読み方は、たいていそういう読み方になってしまうんだが)。実際には、この小説自体が黒人の物語でありながら、白人の西洋人によって書かれているということとか、色々。うーむ。単純に蕎麦と小麦粉の話ではおさまらないのね(^^;。
あなたのPC汚染度チェック
1999年 8月 10日 (火) 20時 55分 27秒 現在
あなたは
77.5%
コンピュータに汚染されています。
かなり危ないです。背中を押されたらあっという間に落ちていきます。
もし周りに悪友がいるのなら、すぐに手を切るべきでしょう。
自分のWebサイトがあるのなら閉鎖すればまだ間に合うかも知れません。
これ以上踏み込むと後戻りは絶対に出来ません。
というか、後戻りするには相当な訓練が必要でしょう。
人間としての尊厳をまだ持っているのなら今しかありません。
でも、選択肢に答えがない質問が多かったので、なあ(^^;。